【光る君へ】藤原彰子が念願の男児出産!皇子・敦成親王(後一条天皇)はどんな生涯をたどったのか? (3/4ページ)
厳密には圧力をかけて東宮の座を辞退させたのでした。
道長「いやぁ、私としてはお約束を守りたかったのですが、敦明親王殿下のご意向とあっては尊重するしか……」とか何とか。
どの口が言うか(流石にこんな言い方はしてません)ですが、ともあれ東宮の座には皇弟の敦良親王が納まりました。
翌寛仁2年(1018年)には叔母の藤原威子(いし/たけこ。道長の四女)が入内。9歳年長の姐さん女房でしたが、夫婦仲はよかったようです。
しかし幸せばかり感じてもいられません。周囲の者たちが道長に遠慮して、威子のほかに誰も誰も入内しませんでした。
そうなると、威子には是が非でも皇子を産んでもらわなくてはなりません。
藤原一族、特に道長から多大なプレッシャーをかけられたことでしょう。
二人の娘と愛する妻と
入内から8年が過ぎた万寿3年(1026年)、威子は念願の子供を産みました!
「「「おおっ!どっちだ?」」」
が、産まれたのは女児。道長の落胆と、威子に向けた冷たい視線は想像に難くありません。
そんな中でも、後一条天皇は威子の味方でした。
「過去には女帝が立った例もあるし、女児でも男児でも我が子の可愛さには変わりない」
と威子をかばった後一条天皇。産まれた女児は章子内親王(しょうし/あきらこ)と名づけられます。
翌万寿4年(1027年)には道長が薨去、長元2年(1029年)には次女の馨子内親王(きょうし/かおりこ)が誕生しました。