【光る君へ】藤原彰子が念願の男児出産!皇子・敦成親王(後一条天皇)はどんな生涯をたどったのか?
時は寛弘5年(1008年)9月11日、藤原彰子が念願の男児を出産しました。
敦成親王(あつひら)と名づけられた皇子は、後に第68代・後一条天皇となります。
今回は敦成親王/後一条天皇の生涯をたどってみましょう。
誕生から即位まで敦成親王は一条天皇と藤原彰子の間に誕生。一条天皇の皇子としては四番目の次男、彰子の皇子としては最初の長男でした。同母弟には敦良親王(あつなが。後朱雀天皇)がいます。
寛弘8年(1011年)に一条天皇が危篤のため居貞親王(いやさだ。三条天皇)に譲位。間もなく崩御されました。
三条天皇の東宮(皇太子)となった敦成親王は、祖父・藤原道長の期待を一身に背負って成長します。
一刻も早く孫を皇位に就けるべく、道長は何かにつけて三条天皇に圧をかけ続けたのでした。
その甲斐?あって、長和5年(1016年)1月29日、三条天皇が「我が子を東宮とすること」を条件に敦成親王へ譲位。敦成親王は8歳で皇位を継承したのです。
当然幼帝に政治が分かるはずもなく、道長が摂政(せっしょう。未成年の天皇陛下を補佐する)に就任。皇室の外戚として権勢を欲しいままにしたのでした。
今までも高位にはあったものの、一条天皇しかり三条天皇しかり、なかなか意のままとはいかなかったのです。
それが幼帝であれば思いのまま、道長に楯突くことはできません。よって、ここからが道長政治の本番と言えるでしょう。
道長四女・叔母の藤原威子が入内ちなみに三条天皇が出した譲位の条件によって一度は後一条天皇の東宮となった敦明親王(あつあきら。三条天皇皇子)ですが、のち寛仁元年(1017年)に三条天皇が崩御すると、道長は約束を反故にします。
厳密には圧力をかけて東宮の座を辞退させたのでした。
道長「いやぁ、私としてはお約束を守りたかったのですが、敦明親王殿下のご意向とあっては尊重するしか……」とか何とか。
どの口が言うか(流石にこんな言い方はしてません)ですが、ともあれ東宮の座には皇弟の敦良親王が納まりました。
翌寛仁2年(1018年)には叔母の藤原威子(いし/たけこ。道長の四女)が入内。9歳年長の姐さん女房でしたが、夫婦仲はよかったようです。
しかし幸せばかり感じてもいられません。周囲の者たちが道長に遠慮して、威子のほかに誰も誰も入内しませんでした。
そうなると、威子には是が非でも皇子を産んでもらわなくてはなりません。
藤原一族、特に道長から多大なプレッシャーをかけられたことでしょう。
二人の娘と愛する妻と入内から8年が過ぎた万寿3年(1026年)、威子は念願の子供を産みました!
「「「おおっ!どっちだ?」」」
が、産まれたのは女児。道長の落胆と、威子に向けた冷たい視線は想像に難くありません。
そんな中でも、後一条天皇は威子の味方でした。
「過去には女帝が立った例もあるし、女児でも男児でも我が子の可愛さには変わりない」
と威子をかばった後一条天皇。産まれた女児は章子内親王(しょうし/あきらこ)と名づけられます。
翌万寿4年(1027年)には道長が薨去、長元2年(1029年)には次女の馨子内親王(きょうし/かおりこ)が誕生しました。
やはり一族の視線は冷たく、威子にとっては後一条天皇の愛情と家族の絆だけがよりどころとなったようです。
しかし後一条天皇は体調が思わしくなく、長元9年(1036年)4月17日に29歳という若さで崩御してしまいました。
死因については諸説あり『栄花物語』では飲水(やたら喉が渇く)と痩身の症状が記述されており、糖尿病ではないかと考えられています。
夫を喪った威子は嘆き悲しみ、同年の内に後を追うように崩御したのでした。
あまりに突然な崩御によって譲位の儀式が間に合わず、その死を秘して敦良親王に譲位が行われたそうです。
終わりに今回は敦成親王(後一条天皇)の生涯を駆け足でたどってきました。
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、どのような人物に描かれるのでしょうか。藤原威子との愛情や絆も味わいたいものです。
これからの登場を、楽しみにしましょう!
※参考文献:
倉本一宏『人物叢書 一条天皇』吉川弘文館、2003年12月 山本淳子『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』朝日選書、2007年4月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan