「本能寺の変」と細川藤孝の決断。明智光秀と共に滅びる立場にありながら豊臣秀吉から功を賞された男【後編】 (3/5ページ)
光秀が有利と見たら、勝ち馬に乗ろうとする武将出てくることは想像に難くありません。
藤孝はその流れを完全に断ち切ったのです。
戦場における戦術レベルの活躍ではなく戦略あるいは政略レベルで、藤孝は秀吉の勝利に大きな貢献をしたのでした。
藤孝はなぜ決断できたのか?光秀の敗死という結果を知っている私たちにとって、光秀に付くという選択肢が間違いであることは明白です。
しかしリアルタイムで巻き込まれている人たちはそうではありません。
「本能寺に宿泊中の織田信長が、明智光秀に攻められて死んだ」
という事実ですら、当初は正しく伝わっていませんでした。
これを機に明智政権が誕生する可能性だって十分に考えられたのです。
しかし藤孝は「光秀に味方しない」と即断し、それを貫きました。
それが可能だった理由のひとつに、本能寺の変に関する正確な情報を手にしていたということが挙げられます。
実は本能寺の変が起きたまさにその時、藤孝の家臣である米田求政がたまたま京に滞在していました。米田は現地で可能な限りの情報を収集し、藤孝に急報しました。藤孝に第一報をもたらしたのは米田だったのです。
もしも第一報が光秀からもたらされていたら、当然その情報は光秀に有利なものに改ざんされている可能性を考慮しなければなりません。おそらく、他のルートからも次々と不確かな情報はもたらされるでしょう。
信頼できる部下から確かな情報を得ていたこと。それが藤孝の決断を支えていたことは間違いありません。