時の権力者に屈服せず武装化!源頼朝や織田信長も恐れた僧兵集団 「比叡山 延暦寺」の武力【前編】 (2/2ページ)
最澄の悲願は日本の旧仏教から独立し、天台宗の僧侶を養成する事であったが、達成を見ずに死去する。僧侶を公認・育成するための儀式を行う場「戒壇」の設立許可が降りたのは最澄の死後7日目の事であった。
最澄の死後、天皇の勅命により「延暦寺」の寺格(寺院の格式)を賜り、「比叡山延暦寺」と呼ばれるようになった。
武装化の背景
延暦寺根本中堂(Wikipediaより)
延暦寺の武装化のきっかけには大きく2つの要因が関係している。
荘園の存在中世の日本では、社会的に一定水準以上の権勢を有した家柄や集団に対して「荘園(しょうえん)」と呼ばれる土地が国から与えられた。寺社も荘園を所有することが可能であり、延暦寺は巨大な荘園を有していた。荘園を巡っては争いが絶えず、延暦寺は対外勢力から自身の荘園を守るために武装化が進行したと考えられる。
内部対立延暦寺は日本の仏教史に名を残す名僧を数多く輩出したが、自ずと派閥や宗派間の争いも発生した。9世紀から10世紀頃には対立や抗争が激しくなり武装発起が起こる。こうした中で僧兵が発生し、寺社内の武装化が進んでいった。
【後編】へ続きます
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan