【光る君へ】藤原道長の三男・顕信の出家を導き、道長を仇敵の如く憎んだ「慶円」とは何者?

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【光る君へ】藤原道長の三男・顕信の出家を導き、道長を仇敵の如く憎んだ「慶円」とは何者?

藤原顕信(道長三男)が突然の出家。父によって前途を絶たれた(蔵人頭の打診を辞退された)ことを絶望したためと言われています。

そんな顕信の出家を導いたのが比叡山延暦寺の僧侶・慶円(きょうえん/けいえん)。果たして彼は何者だったのか、今回はその生涯をたどってみたいと思います。

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修行一筋、天台宗のトップに

慶円は天慶7年(944年)、藤原尹文(ただふみ)の子として誕生しました。

藤原実資から見て母方の叔父に当たるそうですが、父親については藤原道明(みちあきら)や藤原連実(つらざね)とも言われます。

幼いころから延暦寺に入り、喜慶(ききょう)の弟子となりました。11歳となった天暦8年(954年)に得度受戒、正式な僧侶となります。それから40年以上にわたって修行を積みました。

修行を積む慶円(イメージ)

長年の功徳が認められた慶円は長徳元年(995年)に権律師(ごんのりっし)、長保2年(1000年)には権少僧都(ごんのしょうそうず)、長保4年(1002年)には大僧都に任じられます。

更に寛弘8年(1011年)には権僧正(ごんのそうじょう)、長和2年(1013年)には僧正、同年中に大僧正へと昇進していきました。

そして長和3年(1014年)には天台宗のトップである第24代天台座主(てんだいざす)となったのです。

合わせて法性寺座主(ほっしょうじ)や普門院別当(ふもんいんべっとう)も務めました。

しかし寛仁3年(1019年)に病を理由として一線を退き、同年中に世を去ります。享年76歳。

道長だけは大嫌い!加持祈祷を断る

駆け足で慶円の生涯をたどってきましたが、彼は様々な要人との交流がありました。

例えば甥の藤原実資は慶円を「堪能人(たんのうのひと。教養や深みのある人物)」として庶子の良円(りょうえん)を預けるなど、ひとかたならぬ信頼を寄せています。

また一条朝の四納言として名高い藤原行成とも交流があり、彼の日記『権記(ごんき)』にも慶円がしばしば登場しました。

加持祈祷を行う慶円(イメージ)

一条天皇との関係も深く、第二皇女である媄子内親王(びし/よしこ。当時4歳)が鼻の穴にサイコロを詰めてしまった時、加持祈祷を通じて取り出す手柄を立てています。

そして一条天皇自身が出家した際も戒師を務め、崩御の間際まで加持祈祷を行ったことで一時蘇生するに至りました。

また長和元年(1012年)に藤原顕信が出家した際も戒師を務めています。

一方で道長との仲は険悪で、道長の日記『御堂関白記』では慶円が道長に対して「如讎敵(仇敵のごとし)」と思っていると記されました。

これは顕信の出家に驚いた道長が比叡山へ駆けつけた際、馬で山を登ったことを宗徒らが憤り、慶円も怒りを同じくしたことに由来します。

その直後に病で倒れた道長の加持祈祷を断る一方、道長と対立していた三条天皇の病に対しては熱心に加持祈祷を行うなど、反道長姿勢を明らかにしました。

しかし道長の孫までは憎んでいなかったようで、後一条天皇(敦成親王)や後朱雀天皇(敦良親王)については病の際にちゃんと加持祈祷をおこなっています。

こうして見ると、みんなから慕われる人格者が道長だけは毛嫌いしたような印象ですね。

他に道長が嫌われるようなエピソードがあったのか、気になります(あるいは周囲への態度を見聞きして嫌いになったのかも知れませんね)。

終わりに

今回は比叡山の天台座主・慶円について紹介してきました。

NHK大河ドラマ「光る君へ」にもちょっと出てきましたが、今後も活躍するのでしょうか。これからも楽しみにしています!

※参考文献:

槙野広造 編『平安人名辞典 長保二年』高科書店、1993年1月 『平安時代史事典』角川書店、1994年4月

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