【逃げ上手の若君】武将・北条時行の最大の庇護者にして諏訪氏の当主・諏訪頼重の人生と真の姿:後編

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【逃げ上手の若君】武将・北条時行の最大の庇護者にして諏訪氏の当主・諏訪頼重の人生と真の姿:後編

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【逃げ上手の若君】武将・北条時行の最大の庇護者にして諏訪氏の当主・諏訪頼重の人生と真の姿:中編

建武政権との対立と敗北

思わぬ旧鎌倉幕府勢力の決起は、京の建武政権に衝撃をもたらしました。

足利尊氏は、時行討伐のために征夷大将軍任命を朝廷に要請。しかし後醍醐天皇は許しませんでした。

結果、尊氏は勅命を得ずして出陣。折って征東将軍に任じられています。

おそらくはこのときには、すでに尊氏は新たな武家政権を築こうと考えていたと思われます。

建武2(1335)年8月、尊氏は次々と時行方の武将を撃破。14日には、諏訪氏出身の諏訪小次郎金刺頼秀が戦死するなど、追い詰められていきます。

しかし頼重や時行たちも奮戦し、各地で激闘を展開。今川頼国・頼周兄弟を討ち取るなど戦功を上げています。

ところが戦線の後退は徐々に後退。19日になって、相模国辻堂で頼重は鎌倉の勝長寿院で一族43人と共に自刃して果てました。

嫡男・時継もこの時に運命を共にし、諏訪氏の家督は頼重の孫である頼継が相続しています。

頼重は、後半生において北条氏や時行のために戦い、そして命を燃やして生き切ったと言えるものでした。

のちの室町幕府初代将軍となる足利尊氏。彼の裏切りが鎌倉幕府滅亡の一端となった。

もう1人の諏訪頼重と江戸時代に大名となった諏訪氏

頼重の没後の諏訪氏について、少しだけ触れさせて下さい。

孫の頼継が諏訪氏を継承した後、諏訪氏は変わらず足利に対抗して南朝方に参戦しています。

しかし敗北を重ねた末に没落。かつて一国をまとめたほどの権威は失われていきました。

時代が下り、戦国時代に入ると諏訪氏に新たな人物が登場します。

それも諏訪頼重という人物です。南北朝時代と同名ですが、彼も歴史に名を残した武将でした。

戦国時代の諏訪頼重は、甲斐国の武田氏と敵対。一時の諏訪氏は甲斐国に攻め込もうかとするほどでした。

諏訪頼重は武田信虎の三女を正室に迎えて婚姻関係を構築。しかし武田晴信(信玄)の代になると再び敵対します。

晴信は諏訪氏の内紛を利用して諏訪へ侵攻。降伏した諏訪頼重は甲斐国の甲府に身柄を移されます。

天文10(1541)年、東光寺で諏訪頼重は自刃。このとき、諏訪惣領家は滅亡しました。

のちに諏訪頼重の娘・諏訪御料人が信玄の側室となり、二人の間に諏訪(武田)勝頼が生まれています。

しかし天正10(1582)年、その勝頼も織田信長によって滅ぼされてしまいました。

結果、諏訪氏の傍流である諏訪満隣が大祝職を継承。やがてそこから分立した武家が信濃国高遠藩を立藩して、明治には子爵の爵位を賜っています。

このように、諏訪頼重の生涯は、幕府の崩壊、北条氏との忠義、そして武田信玄との戦いという、激動の時代に翻弄されたものでした。しかし、彼の存在は諏訪氏の歴史において欠かせない重要な役割を果たしていたことは間違いありません。

上原城跡。諏訪氏の痕跡を現代に伝える。

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