狂人?人格破綻?度重なる狂気的乱行の末に自刃した徳川2代将軍・秀忠の息子「徳川忠長」の生涯【後編】 (2/3ページ)
その翌年には、自身の命令の遂行に手間取った家臣をまたも殺害。急速に乱行が目立つようになった。
度重なる乱行に甲府への蟄居が決定。その際、忠長は赦免を要求したが許されなかったという。
1632年に父・秀忠が死去すると領国すべてを没収され改易。上野国高崎へ逼塞(ひっそく。昼間の出入りを禁止する罰則)させられた。1634年、幕命により高崎において自刃。享年28。
狂人と呼ばれる由縁忠長の改易および自刃の原因には様々な説が唱えられているが、その中でも有名なものに忠長自身の人格に問題があったとする説がある。
「狂人」や「人格破綻者」などと表現される忠長には、それを彷彿とさせる逸話がいくつか残っている。
1631年、甲府への蟄居を命じられた年には、酒によって家臣の子や御伽の坊主(髪を剃り坊主姿の年配の女中)を殺害。乱暴や狼藉も甚しかったという忠長の周りには側近は寄り付かなくなった。
当時江戸に詰めていた家老の伝聞や観察では、改易や自刃の原因は忠長本人の狂気による部分が大きいと考えられていたようだ。
自刃の真相忠長の処分についてははっきりとした真相がわかっているわけではない。
上述の通り、忠長自身の狂気が原因で自刃に追い込まれたという見解が定説となっているが、家光の陰謀説なるものも根強く残っている。