幕末の箱館戦争を生き残った謎多き新選組隊士「中島登」失敗と成功を繰り返したユニーク人生 (2/2ページ)
せっかくの一攫千金の夢が馬で台無しに?
投降後は青森など色々な場所に送検されて謹慎後に、明治3年(1870年)に静岡藩お預けになります。明治政府から赦免されて多摩に戻るものの、再び静岡に戻り、土地の開墾に尽力などして浜松に定住。
その後商売を始めますが、失敗と成功の繰り返しでした。
まず、旧幕臣の友人と始めた質屋経営に失敗。
ところが1881年、趣味で栽培していた葉蘭(ばらん)に偶然新種が誕生し、品評会でも高く評価され、爆発的な売れ行きをみせます。その新種の名前は「金玉廉」と名付けられました。
これで人生安泰か…と思いきや、なんと馬がその葉蘭の親株を食べてしまったのです。
なんてこったい。
その後、中島は鉄砲火薬売買人免許を取得し「中島鉄砲火薬店」を開業したそうですが、一般人には鉄砲は売れなかったと思いますし、明治政府とはパイプが無いので、うまくいかなかったのではないでしょうか…。
そんな中島登の家訓が
一、食物の事につき一切好き嫌いを云うな。
一、碁、将棋など勝負事は一切やるな。
一、質屋、金貸しは孫子の代までやるな。
質屋経営の失敗をきちんと残しています(笑)。
彼は明治20年(1887年)4月2日、享年50で没します。新撰組での目立った活躍は無いものの、激動の時代を駆け抜けた人生だったと言えるでしょう。
辞世の句は
「たかくとも 五十(いそ)の峠をやすやすと 越ゆれば御代の 春ぞのどけき」
なんとなく朴訥で実直な気風が感じられ、多摩の人間っぽいなーと思うの私だけでしょうか?
参考:新撰組全隊士ガイド
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan