その生き様まさに不屈!一族滅亡寸前の中で生き残った戦国武将・長連龍の復讐と一族再興までの道のり
畠山氏に仕えた長連龍(ちょう-つらたつ)は、主家の滅亡と同時に自らの一族も滅亡寸前まで追い込まれた中で、生き延びて一族再興を果たした戦国武将です。
そのような状況の中で、連龍はなぜ生き延びることができたのでしょうか。
今回は、生き延びた理由を解説しつつ、一族のために戦った不屈の武将・長連龍が辿った復讐と一族再興の生涯を紹介します。
僧でありながら戦場で戦った天文15年(1546)に連龍は長続連(つぐつら)の3男として産まれます。幼い時より出家し宗顒(そうせん)と名乗り、孝恩寺の住職となりました。
それにも関わらず、永禄12年に畠山家家臣・八代俊盛が謀反を起こした際に出陣し、僧でありながらも戦いに従事しました。
また、天正5年(1577)5月に上杉謙信が能登侵攻の際に落城した長家の居城・穴水城奪還のため、法衣の姿のままで水軍を指揮。奪還はできませんでしたが、70の首級を取る活躍をみせます。
ちなみに、謙信が能登国(現在の石川県北部)に侵攻したきっかけは、室町幕府再興のための上洛に必要不可欠な兵站の確保でした。
当時、畠山家は幼い畠山春王丸を当主にしており、非常に不安定な状態でした。
これに謙信は介入し、平和裏に畠山氏の居城・七尾城を確保しようと画策するも、実権を握っていた連龍の父・続連は親織田信長派だったので拒否。
謙信と戦う姿勢を見せたことで、天正4年(1576)11月から七尾城の戦いと呼ばれる戦いが起こりました。
長一族壊滅と七尾城の戦い収束七尾城の戦いでは畠山軍が堅城の七尾城で籠城戦を展開しておりましたが、天正5年(1577)閏7月に七尾城内で起こった疫病で春王丸が亡くなったことで一変。
士気の低下を招きつつ、一度帰国した謙信が再度能登に向けて出陣したことを受け、続連は信長から援軍を要請するために連龍を送ります。
連龍により柴田勝家を総大将にした織田軍が派遣されるも、次第に劣勢になっていく中で親謙信派の畠山家重臣・遊佐続光が、同じく重臣の温井景隆・三宅長盛兄弟と上杉に寝返り城門を開門。
これにより続連や連龍の兄・綱連(つなつら)を含めた100人余りの長一族が討ち取られ、七尾城は落城しました。
信長に仕え、復讐の機会をうかがう連龍が織田軍と共に来た頃には、一族の首は加賀国石川郡倉部浜(現在の石川県白山市倉部町)に晒されていました。
この時、長一族で生き残ったのは連龍と兄・綱連の末っ子である菊末丸のたった2人のみ。七尾城の戦いで主家も失った連龍は、一族の無念を晴らすべく信長に仕えました。
天正6年(1578)に謙信が亡くなると、信長の支援と長家を慕っていた者たちを集め、長家の居城・穴水城を奪取に成功します。
しかし、上杉軍の攻勢により穴水城を手放し、越中国守山城城主・神保氏張(じんぼう-うじはる)のもとに逃れます。
その後、態勢を整えた連龍は天正8年(1580)に菱脇の戦いで上杉に寝返った温井景隆と三宅長盛に勝利。討ち取ることはできずに、両名と和睦を結ぶよう信長から命じられました。
仇敵ということもあり、連龍が難色を示したために鹿島半群を与え、何とか和睦を結ばせたと言います。
遊佐続光の方は上杉不利と見るや信長に降伏するも、長一族を謀殺した経緯もあり、処刑されました。一説では、七尾城から逃げ出した続光を連龍が探し出して殺害したと言われています。
また、天正9年(1581)に前田利家に能登国が与えられると、連龍は与力として利家に仕えました。
前田家のもとで活躍する天正10年(1582)に起こった本能寺の変後も引き続き利家に仕えます。
この時、越後に落ち延びていた温井景隆と三宅長盛が能登奪還を目指し、利家と対峙した荒山合戦が勃発。この戦いは、佐久間盛政の救援を要請した前田・佐久間連合軍の圧勝で終わり、景隆と長盛は討ち死にしました。
連龍はこの戦いの功績で3万1000石を拝領されます。
翌年の賤ヶ岳の戦いでは前田軍の殿を務め、家臣を失うも撤退を成功させました。
天正12年に小牧・長久手の戦いの影響を受けて起こった末森城の戦いでは、出陣した利家を助けるために出陣。利家から抜群の活躍比類なしと称賛を受けるほどの活躍をしました。
その後も小田原の役や朝鮮出兵で功績を挙げ、慶長5年(1600)に起こった浅井畷の戦いでは、連龍の奮戦ぶりで西軍に敗れつつも撤退に成功しました。
長家を現代まで続く一族まで再興を果たす数々の戦いを経て慶長11年(1605)に家督を嫡男の好連(よしつら)に譲るも慶長16年(1611)に30歳で病死。
次男の連頼(つらより)はまだ6歳だったため、再び連龍が当主となります。
この後に起こった大坂の陣にも70歳の高齢でありながら出陣し、その功績が認められ加増を受けました。
最終的に3万3000石を有するまでに出世した連龍は、元和5年に74歳で死去。家督は次男の連頼が受け継ぎ、以降は加賀前田家の家老として存続し、現代まで続く一族になるまで再興を果たしました。
参考文献:杉畠啓文作,チハラアケミ画(2024)『マンガふるさとの偉人:不屈の武将 長連龍』東四栁史明監修,石川県穴水町発行
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