「哀しくとも」生きのびた先に待っていたのは…「光る君へ」史実を基に12月8日放送回を振り返り
刀伊の入寇によって朝廷に激震が走ったのも束の間、摂政の藤原頼通(渡邊圭祐)はじめ公卿たちは様子見ばかり。
大宰府では藤原隆家(竜星涼)率いる武者たちの奮戦によって刀伊を撃退するも、朝廷の命を受ける前に行った私戦ということで恩賞はなし。
ルールとしては正しいけれど、それでは今後いざ有事に誰も戦ってくれなくなると藤原実資(秋山竜次)が熱弁するも、朝廷の決定は変わりません。
一方先の戦闘で周明(松下洸平)を喪って哀しみに暮れ、大宰府から立ち去りがたいまひろ(藤式部。吉高由里子)。そんな主人を見かねた乙丸(矢部太郎)は、渾身のワガママで帰京を決意させたのでした。
しかし京都へ戻ったところで物語を書く気力もなく、途方に暮れる中、源倫子(黒木華)から藤原道長(柄本佑)との関係を尋問されることになります。
NHK大河ドラマ「光る君へ」もそろそろ終わりが近づいてきて、早くもロスになっている視聴者も多いのではないでしょうか。
今回の主役は藤原隆家&藤原実資、そして今回の殊勲賞は、生まれて初めて?主君のために駄々をこねた乙丸だと確信しています。
それでは今週も、第47回放送「哀しくとも」気になるトピックを振り返って行きましょう!
第47回放送「哀しくとも」関連略年表 寛仁3年(1019年)まひろ50歳/道長54歳 4月某日 源隆国(源俊賢の次男)が備前介に任じられる 4月17日 大宰府から急報が届く 4月18日 陣定で対応が協議される⇒藤原公季が山陰道・山陽道・南海道の警固強化を提案
⇒藤原実資が北陸道も加えるよう提言 6月29日 陣定で恩賞が協議される 7月13日 大蔵種材が壱岐守に任じられる 8月末~9月 高麗の使者・鄭子良が拉致された日本人を日本へ送り届ける 9月22日 陣定めで高麗への対応が協議される 12月 藤原隆家が大宰権帥を辞する 寛仁4年(1020年)まひろ51歳/道長55歳 2月 高麗の使者が帰国する 時期不明 道長が無量寿院(のち法成寺)を建立する
今回は刀伊の入寇における戦後処理がメインテーマでしたね。
ヒロインのお相手役である道長が亡くなるまで後7年ありますが、最後にすっ飛ばす気なのでしょうか。
ちなみに劇中では肥前守に推挙されていた平為賢(神尾佑)ですが、実際に補任された記録はないと言います。
坂東平氏の末裔が肥前守として勢力を伸ばしたことから、為賢も混同されたのかも知れませんね。
公卿らは無能で冷淡?在地の武者たちと力を合わせ、見事に刀伊の賊徒を撃退した隆家。
しかし朝廷では彼らに対して冷淡であり、藤原行成(渡辺大知)や藤原公任(町田啓太)らは、勅命なく(命を受ける前に)行った私戦を賞するべきではないと主張しました。
それを聞いた実資は「命がけで戦った者をないがしろにしては、今後また何かあった時、戦ってくれる者がいなくなる」と主張します。
結局のところ実資の主張は通らず、鎮西の武者たちに満足な恩賞は与えられませんでした。
ここだけ見ると、公卿たちは国家の脅威に対する危機意識が低く、かつ冷淡な印象を受けかねません。
しかし心情的にはともかく、朝廷の判断として見れば、行成や公任らの判断は妥当と言えるでしょう。
もし勅命なく戦を行い、その評価や恩賞を朝廷が追認するシステムを確立してしまうと、武者たちは日本各地で私利私欲の戦を繰り広げかねません。
あくまで朝廷は秩序(ここでは朝野の序列や力関係)を重んじ、武力をもって世を治めることを是とはしませんでした。
しかし理想と現実は異なり、やがて世の主導権は貴族から武士たちへと移り変わっていきます。
隆家や武者たちの活躍は確かに素晴らしいものではありましたが、だからと言って彼らを手放しに賞賛できない朝廷の都合もあったのです。
間もなく隆家が大宰権帥を辞して帰京したのは、刀伊の入寇における手腕が評価されたのと同時に、隆家が九州武士団を束ねるのを阻止する当局の意向もありました。
カリスマを持つリーダーが武士たちを率いて、朝廷と距離をおいた権威を確立する、後世で言う幕府のようなものを作られてはたまりません。
隆家にそんな野望があったかはともかく、武士たちの世が来るまでは、もう少し時を要するのでした。
武者たちの活躍さて、刀伊の入寇では多くの武者たちが軍功を立てました。
ここでは大河ドラマには登場しなかった、描かれなかった活躍を一部紹介したいと思います。
……太宰注進成勲功者、散位平朝臣為賢、前大監藤原助高、傔仗大蔵光弘、藤原友近、友近随兵紀重方、以上五人、警固所、合戦之場、相戦者雖数多、賊徒正中件為賢等矢……
※『小右記』寛仁3年(1019年)6月29日条
【意訳】大宰府から勲功の注進があった者は、以下の5名。
平為賢(散位) 藤原助高(前大宰大監) 大蔵光弘(傔仗。大蔵種材の子) 藤原友近(無位無官) 紀重方(友近の随兵)博多の警固所では多くの武者たちが戦ったが、賊徒らを仕留めた矢の多くは彼らが射たものであった。
同国怡土郡住人多治久明、
賊徒到来之間、於當郡青木村南山辺相戦、賊徒合戦、射取賊一人、斬其首進府者、先日解文難注子細、仍件久明自漏矣、
※『小右記』寛仁3年(1019年)6月29日条
【意訳】多治久明(たじの ひさあきら)は筑前国怡土郡の住人(無位無官の武者)である。
怡土郡青木村の南にある山辺で賊徒と戦い、一人を射殺し、その首を斬って大宰府へ献上した。
前肥前介源知、
賊徒還却之間、於肥前国松浦郡合戦之間、多射賊徒、又生捕進一人、
※『小右記』寛仁3年(1019年)6月29日条
【意訳】源知(みなもとの しるす/さとる)は前肥前介(元国司次官)である。
賊徒が肥前国松浦郡まで敗走してきた際、これを追撃する。多くの賊徒を射殺し、一人を生け捕りにした。
壱岐講師常覚、
賊徒三襲、毎度撃返、後不堪数百之衆、一身迯脱、身雖非在俗、其忠義不可隠、
※『小右記』寛仁3年(1019年)6月29日条
【意訳】常覚(じょうがく)は壱岐島分寺(国分寺)の講師であった。
賊徒が寺を襲撃すること三度、すべて撃退した。しかし数百もの敵を防ぎ切れず、ただ一人で脱出する。出家の身ではなくが、その忠義は決して隠れるものではない。
大河ドラマではただボロボロになって大宰府へ逃げ込んだように描かれていた常覚(タイソン大屋)。
壱岐守である藤原理忠(まさただ)らが玉砕した後、島民や僧侶だけで三度も賊徒を撃退した勇姿も観たかったですね。
恩賞には与れなかったものの、彼らの武功は人々から高く評価されたことでしょう。
備前介となった源隆国って誰?劇中で名前だけ登場した源隆国(みなもとの たかくに)。せっかく備前介(国司次官)となったのに、刀伊襲来の急報に掻き消されてしまいました。
今後登場する機会もないのでしょうが、せっかく名前が出たのですから、この機会に紹介したいと思います。
源隆国は源俊賢(本田大輔)の息子で、後に権大納言となったため宇治大納言と呼ばれました。
藤原頼通の側近として活躍し、藤原寛子(かんし/ひろこ。頼通の娘で後冷泉天皇の皇后)に仕えます。
説話集『宇治大納言物語(現存せず)』の作者とも言われ、平安文学に少なからず影響を及ぼしました。
承保4年(1077年)に74歳で世を去っています。
その他の感想 何はなくとも、乙丸が無事でよかった。きぬ(蔵下穂波)との絆が尊いですね。架空キャラでいいから、乙丸の生涯を一年かけて描いて欲しい。 双寿丸(伊藤健太郎)も無事でよかった。予想に反して、これからも活躍してくれたら嬉しいです。 周明はせめて埋葬してあげて欲しかった。でもスタッフ(野犬やカラスたち)が美味しくいただいたことでしょう。 藤原賢子(南沙良)、光る女君宣言をしていましたが、なろうとしてなれるものか?凄い自信ですね。 藤原為時(岸谷五朗)はまだまだ元気っぽい。万寿4年(1027年。道長没時点)で推定80前、ギリギリいけるか? 藤原顕光(宮川一朗太)、次回怨霊化するか?娘の藤原延子(山田愛奈)ともども、ぜひ道長に目にもの見せて欲しい。 最終回放送「物語の先に」まひろ(吉高由里子)は倫子(黒木華)から道長(柄本佑)との関係を問いただされ、2人のこれまでを打ち明ける。全てを知った倫子は驚きと共に、ある願いをまひろに託す。その後、まひろは「源氏物語」に興味を持った見知らぬ娘と出会い、思わぬ意見を聞くことに。やがて時が経ち、道長は共に国を支えた公卿や、愛する家族が亡くなる中、自らの死期を悟って最後の決断をする。まひろは道長が危篤の知らせを聞き…
※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより。
つい先日「平安時代の大河ドラマ、嬉しい!楽しみ!」とはしゃいでいたような気がするのですが、次回はいよいよ最終回(48回放送)。
色々思うところはあるけれど、平安装束や人々の暮らしを眺めているのは本当に楽しかったです。
さて、ラスボス源倫子との対決?に臨むまひろの運命やいかに(まぁ無事でしょうけど)。
そして道長の死を『源氏物語』の「雲隠(光源氏の死。章名のみで本文なし)」になぞらえ、その謎が明かされます。
最後の最後まで、見届けて参りましょう!
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