奈良時代の「藤原広嗣の乱」はなぜ起きた!?当時の中央集権化に対する不満も一因だった (2/3ページ)
広嗣の左遷と反乱への決意
広嗣は、738年末に大養徳守(やまとのかみ)から大宰少弐(だざいのしょうに)に転任させられ、九州に左遷されることになります。大宰府という辺境の地に送り込まれることは、彼にとっては大きな屈辱であり、中央政界からの事実上の排除を意味しました。この左遷は広嗣にとって非常に苦しいもので、彼の中で「復権への強い欲求」が芽生えます。周囲の支援が期待できない中で、広嗣は自らの手で勢力を回復しようと決意し、反乱を起こすことにしたのです。
反乱の発生と九州での戦闘藤原広嗣が反乱を起こした背景には、当時の九州地方が置かれた社会情勢も影響しています。奈良時代の中央政府は、地方に対して厳しい税金を課し、軍事的な緊張を背景に九州地方でも不安が広がっていました。特に、朝廷からの過度な税負担や、軍事的な圧力に対する反発が地方豪族の間に高まっていたのです。
広嗣は、このような地方の不満を利用し、軍を募って反乱を起こしました。広嗣は、まず玄昉と吉備真備を排除することを上表し、反乱軍を編成して筑前国を進軍。彼の軍勢は3つに分けられ、豊前国(現在の福岡県)の登美(とみ)、板櫃(いたびつ)、京(みやこ)という3つの地点を目指しました。この際、広嗣は自らの旗印を掲げ、中央政府に対する挑戦を鮮明にしました。
中央政府の対応と広嗣軍の敗北しかし、広嗣の反乱は思うように進展しませんでした。中央政府は迅速に対応し、全国的な兵力動員を行います。大野東人(おおののあずまびと)を大将軍に任命し、勅使を派遣して広嗣軍に対抗しました。