奈良時代の「藤原広嗣の乱」はなぜ起きた!?当時の中央集権化に対する不満も一因だった (3/3ページ)

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中央軍は関門海峡を越えて九州に上陸し、広嗣軍が目指した三鎮を次々と制圧。広嗣軍は大損害を受け、豊前国の豪族たちが次々と降伏しました。

その後、広嗣は、板櫃川の西岸に陣を構え、中央政府軍と対峙しましたが、勅使・佐伯常人との交渉で論破されてしまいます。その結果、広嗣軍は総崩れとなりました。広嗣は弟の藤原綱手(つなて)と共に逃亡を図りますが、西風によって船が戻され、肥前国松浦郡の値嘉島で捕えられ、処刑されました。現在の暦で11月末だったことから、西風はおそらく冬型気圧配置の偏西風だったと考えられます。

乱の収束とその後の影響

藤原広嗣の乱が収束すると、大宰府は停止され、その代わりに鎮西府(ちんせいふ)という軍事色の強い組織が設置されました。これにより、九州地方の警戒体制がより一層強化されることになりました。また、玄昉と吉備真備は左遷されました。広嗣の出身だった藤原式家は一時的に衰え、代わって藤原南家が台頭することとなりました。

乱の影響を受けて聖武天皇は東国へ行幸し、恭仁京、難波京、紫香楽宮を転々と移動しました。都の遷移は、約6年にわたる不安定な政治状況を引き起こし、社会全体に不安をもたらすこととなります。

藤原広嗣の乱は、藤原氏内部の権力闘争や中央と地方の関係の不安定さを反映した出来事でした。広嗣の失敗は、彼が孤立し、周囲の支援を得ることができなかったことに起因していますが、それと同時に彼が抱えていた中央政府に対するコンプレックスが関係していたのかもしれません。

参考

佐藤信(他)編 『詳細日本史 日本史探求』(山川出版 2022) 利光三津夫「広嗣の乱の背景」『律令制の研究』(慶応通信 1981) 『前賢故実』 元々は、江戸時代後期から明治時代に刊行された伝記集。全10巻20冊。国立公文書館デジタルアーカイブより

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