軟弱な武将だって!?あまりにも過小評価されている戦国最盛期を築いた名将・今川義元の生涯 (1/3ページ)
今川義元は、「海道一の弓取り」の異名を持ち、戦国時代に駿河・遠江を中心とした広大な領国を築いた戦国大名です。
太平記英勇伝三:今川治部大輔義元(落合芳幾作)Wikimedia Commonsより
その最期である桶狭間の戦いでの敗北や、後世に作られた「公家大名」「軟弱な武将」というイメージから過小評価されがちですが、実際には政治、軍事、外交すべてにおいて卓越した能力を発揮し、戦国大名としての成功を収めた名将でした。
今回は、義元の生涯を紐解き、彼がなぜ名将と呼ぶのにふさわしい人物なのか、検証してみます。
※あわせて読みたい記事:
5男から今川氏当主へ。戦国大名「今川義元」の家督相続物語 【前編】 家督継承と内乱の克服義元は1519(永正16)年、今川氏親の三男として生まれました。一度は仏門に入り、京都の建仁寺や妙心寺で修業を積みましたが、兄の氏輝と異母兄の彦五郎が相次いで早世したため、家督争いに巻き込まれます。
1536(天文5)年、の花倉の乱では、異母兄の玄広恵探と激しく争い、雪斎(太原崇孚)の支援を得て勝利。
