聖徳太子の有名な肖像画は謎だらけ…描いたのは中国人!?ではそもそも描かれた理由は?
聖徳太子と『おじゃる丸』
現代人にもっともよく顔が知られている古代人といえば、やはりかつて一万円札や五千円札に肖像が使われていた聖徳太子でしょう。
彼は推古天皇の摂政として、日本の政治制度の構築や仏教の普及などについて大きな功績を残しました。
ところで、聖徳太子の最も有名な肖像画「聖徳太子二王子像」では、手に細長い板のようなものを持っています。
時代が下って、平安時代の貴族が描かれた絵などを見ても同じようなものを手にしていることが多いですね。
あの板のような棒のようなものは笏(しゃく)といって、貴族が正装をして公の場に出るときに持つものでした。
まさかのカンニング用!?天皇陛下や神職が手に持っているあの板は何?笏(しゃく)にまつわる雑学このアイテムの名称については、アニメ『おじゃる丸』で覚えたという人も多いのではないでしょうか。
その用途は、いわばメモ帳です。よく言えばメモ帳ですが、身もふたもない言い方をすればカンニングペーパーとも言えるかも知れません。
当時の儀式には約束事が多く(いつの時代も儀式には無駄な約束事がつきものですが…)、式次第が細かく定められていました。
そこで、貴族たちは笏の裏に紙を貼り、そこにあれこれとメモを書いていたのです。
そもそも後世の創作しかし、本当に聖徳太子が儀式の場などで笏を使っていたかというと、その可能性は低いです。
日本で笏が使われるようになったのは聖徳太子よりも後の時代です。太子が生きていた時代には、まだ笏はありませんでした。
「聖徳太子二王子像」で太子が笏を持っているのは、あくまでも後世の人の想像です。
ではそもそも「聖徳太子二王子像」が描かれたのはいつなのかというと、実ははっきり分かっていません。
一応、人物の眉の描き方などから、8世紀半ばの奈良時代だろうというのが通説になっています。
つまりあの絵は太子の死後百年以上も後の作品であり、生前の姿を描いたわけではないのです。画中の太子が、存命中にありえなかった笏を手にしているのはそういう事情もあるのです。
作者は中国人聖徳太子が笏を持って描かれたことは、後世の人々が彼をどれほど偉大な存在として敬ったかを示していると言えるでしょう。
現在、教科書などでは聖徳太子という名前は使われなくなってきています。しかしこの名称は、今も日本史上屈指の偉人を示すものとして今も十分に通用しています。
ただ、その聖徳太子を描いたものとして最も有名な「聖徳太子二王子像」については、分かっていないことがまだたくさんあります。
この絵には「唐本御影(とうほんみえい)」「阿佐太子御影(あさたいしみえい)」という、作者を示す二つの異名があるのですが、唐本・阿佐太子のいずれも日本人ではなく外国人のことなのです。
実際、「聖徳太子二王子像」の聖徳太子の服装や画風・構図は当時の中国のもので、日本の画風ではありません。こうした点は、すでに平安時代の学者によって指摘されていました。
これらの疑問に対する回答は、一応出されてはいます。しかしいかにも後付けのような内容です。
「聖徳太子二王子像」が、なぜ太子の死後100年以上も経ってから中国人によって描かれたのか、それがなぜ法隆寺に存在するのかなど、不明な点は今も残っています。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
読売新聞オンライン
画像:photoAC,Wikipedia
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