弥生時代の遺跡で出土する「銅鐸」は何に使われてたの?住居跡からは出土しない理由とは?
朝鮮・中国との交易の痕跡
今回は、弥生時代に製造されていた銅鐸(どうたく)について、その用途などを探っていきましょう。
弥生時代には、青銅や鉄といった金属を用いる技術が現れました。世界的には、青銅の時代から鉄の時代へと移行していきましたが、日本では青銅と鉄の利用がほぼ同時期からスタートしています。
これは、中国で青銅が鉄へ移り変わる頃、日本へ文明的な影響がおよぶようになったからです。
弥生時代の青銅器としては、銅剣、銅矛、銅戈などの武器型青銅器と銅鐸が挙げられます。
これらの原料の仕入先は、時代とともに朝鮮から中国へと変化したことがわかっています。
青銅に含まれる鉛には四種の同位体が混ざっており、それらの同位体の混合比率を調べるとその鉛がどの年代にどこで産出されたかが分かります。
その分析によると、古い銅鐸ほど、朝鮮製の銅鐸に含まれている鉛と一致することから、銅鐸が作られはじめた頃、その原料が朝鮮から持ち込まれたと思われます。
ところが、弥生時代中期頃以降の銅鐸の鉛は、中国北部で鋳造された前漢時代(紀元前一~二世紀)の青銅器に含まれる鉛と同じであることがわかりました。
つまり、弥生時代中期以降は漢時代の青銅器を鋳潰したか、同時期の青銅器のスクラップを用いて作るようになったのです。
こうした事実から、日本は弥生初期には朝鮮半島と交流があったものの、その後は中国本土との交流が活発になったと思われます。
「家庭用」ではなかった?また銅鐸には、住居の跡からは出土しないという特徴もあります。
銅鐸が出土するのは主に近畿地方の遺跡ですが、なぜか住居跡からはまったく発見されません。墳墓からも出てこないのです。
そのほとんどは、小高い丘の上から発掘されます。
これは、銅鐸が個々の家や個人レベルで使われるものではなかったことを示しています。
詳細な利用法は定かではありませんが、基本的に初期の銅鐸は、集落の祭祀で使う楽器のようなものだったと考えられています。
また、出土状況や銅鐸に残された痕跡から、初期の小型タイプはヒモを通して吊るし、内部に石やシカの角で作った「舌」を垂らして、胴体部分か、舌を揺らして鳴らしていたようです。
どのように使われたのか一世紀末からは大型化が進み、銅鐸は音を鳴らして聞くものから、地面か祭殿の床に置いて鑑賞する道具へ変化したようです。鑑賞用とみられる銅鐸の外面には、当時の習俗も描かれています。
小高い丘の上に埋められている理由をめぐってはいくつかの説があり、祭祀が終わると埋めて放棄された説、銅鐸が祭祀に使われなくなって埋められた説、地中で保管され祭祀のたびに掘り出されて利用された説などが挙げられます。
このうち、有力なのは3つ目の保管するために地中に埋められた説です。
銅鐸は、春と秋の農耕祭祀に使われたと推測されることから、夏と冬の間は地中に埋められていたと考えられます。
地中に埋められた銅鐸を掘り出す作業が、地霊や穀霊を地上に迎え、祀ることを意味したのかも知れません。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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