すべては織田軍の罠だった!?「桶狭間の戦い」で今川義元はなぜ“休憩“していたのか… (2/3ページ)
義元の休憩そのものが、織田の策略によるものだったのです。
信長は、10倍近い兵力の今川軍を破るためには、義元が沓掛城から大高城へ移動する間を狙って攻撃を仕掛けるしかないと考えていました。
そして義元が休憩した桶狭間近辺は、もとは織田の勢力範囲でした。そのため、旧領民たちはかつての織田領時代の治安の良さを覚えており、ひそかに信長の勝利を期待していました。
そこで信長は領民たちに協力を求めて、義元が移動する沓掛城から大高城に至る地域に、細かな情報網を設けたのです。義元の動向を完全に把握するためでした。
こうして、義元を討ち取るための情報網をしっかり敷いていた信長は、攻撃するタイミングを虎視眈々と窺っていました。
そこでようやく迎えたのが、義元が桶狭間で休憩しているという絶好のチャンスだったのです。
全てが謀略だった?さらに言えば義元の休憩も、信長によって仕組まれたものだという説があります。
信長の意を汲んだ近隣の村人たちが、勝利の祝いだといって饗応の準備をしたので、義元の軍勢もつい油断して進撃体制を緩めてしまったというのです。
しかも、義元軍は大軍といえども各地に分散していたため、桶狭間周辺には織田軍のおよそ二倍弱程度の軍勢しか配置されていませんでした。
このため、義元は手薄の本陣を突かれて信長に討ち取られることになったのです。