すべては織田軍の罠だった!?「桶狭間の戦い」で今川義元はなぜ“休憩“していたのか…

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すべては織田軍の罠だった!?「桶狭間の戦い」で今川義元はなぜ“休憩“していたのか…

油断しすぎた今川義元

皆さんご存じの通り戦国時代の1560年(永禄三年)、桶狭間の戦いで、織田信長は今川義元を討ち取りました。

歌川豊宣画『尾州桶狭間合戦』(Wikipediaより)

「桶狭間の戦い」はなぜ起きた?正確な場所はどこ?有名なのに実は不明点だらけ…【前編】

この桶狭間の戦いそのものが謎が多く、そもそも桶狭間という土地は正式には一体どこなのかいまだに不明という有様なのですが、そうした謎の一つに今川義元はなぜ桶狭間で休憩を取っていたのかというのがあります。

義元は、桶狭間で陣を取り休憩していたところで、信長の強襲に遭って首を奪われています。

休憩していたせいで首を取られたとあっては、当時の戦国大名の中では屈指の有力大名だった今川義元も、いくらなんでも油断しすぎだという誹りを免れないでしょう。

なぜ、義元はよりによってそこで休憩を入れたのでしょうか。

領民の協力があった

実はこれは、織田軍による謀略が奏功した面が大きいといわれています。義元の休憩そのものが、織田の策略によるものだったのです。

桶狭間古戦場公園の織田信長像と今川義元像

信長は、10倍近い兵力の今川軍を破るためには、義元が沓掛城から大高城へ移動する間を狙って攻撃を仕掛けるしかないと考えていました。

そして義元が休憩した桶狭間近辺は、もとは織田の勢力範囲でした。そのため、旧領民たちはかつての織田領時代の治安の良さを覚えており、ひそかに信長の勝利を期待していました。

そこで信長は領民たちに協力を求めて、義元が移動する沓掛城から大高城に至る地域に、細かな情報網を設けたのです。義元の動向を完全に把握するためでした。

こうして、義元を討ち取るための情報網をしっかり敷いていた信長は、攻撃するタイミングを虎視眈々と窺っていました。

そこでようやく迎えたのが、義元が桶狭間で休憩しているという絶好のチャンスだったのです。

全てが謀略だった?

さらに言えば義元の休憩も、信長によって仕組まれたものだという説があります。

信長の意を汲んだ近隣の村人たちが、勝利の祝いだといって饗応の準備をしたので、義元の軍勢もつい油断して進撃体制を緩めてしまったというのです。

しかも、義元軍は大軍といえども各地に分散していたため、桶狭間周辺には織田軍のおよそ二倍弱程度の軍勢しか配置されていませんでした。

このため、義元は手薄の本陣を突かれて信長に討ち取られることになったのです。

「今川義元戦死之地」の石碑

ここでご紹介した学説が全て正しいとすれば、今川義元は最初から最後まで完全にハメられていたということですね(ちょっと出来過ぎという気はしますが)。

桶狭間の戦いで信長が見せたこうした巧妙な戦略は、彼の指導力と洞察力の証明だったと言えるでしょう。

この勝利をきっかけに、信長は周辺諸国にその名を知られるようになり、有力大名としての地位を確立していくことになったのです。

参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia

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