戦国時代の「抜け駆け」は命懸け!?徳川家康はルールを破った家臣をどう処罰したか (2/3ページ)

Japaaan

しかしこうした抜け駆けは、合戦中、功名を願う武者の頭には常にちらついていたに違いありません。

後方の部隊にいる兵にとっては、一番槍や一番首の名誉にありつくのはとても無理な話です。そこで、密かに前線に出て、出先鋒より先に敵陣を襲撃するのは甘美な誘惑だったことでしょう。

しかし、こうした抜け駆け行為の難しいところは、それを実行する当人にとっても、また軍勢全体にとっても非常にリスキーだという点です。

確かに、抜け駆けが成功して敵陣が混乱すれば、勝利を収めることもできるでしょう。しかし失敗すれば、逆に自陣が切り崩され、敗北に至ることもあるのです。

そんなリスクがあるため、戦国大名のほとんどは抜け駆けを厳しく禁じていました。一人の抜け駆けを許せば軍規が緩み、その後の作戦に支障をきたすと考えたからです。

徳川家康のケース

一例として、徳川家康は抜け駆け行為に対して厳罰で臨んでいます。

1578年(天正6)、徳川軍が、武田勝頼の軍勢と遠江掛川付近で戦ったときのことです。家臣の大須賀小吉が抜け駆けを行いました。

小吉は旗本衆よりも前に出て、軍功を挙げようとしたのです。彼は奮戦したものの、家康はこの抜け駆けを許しませんでした。

小吉のおじにあたる大須賀康高は家康の重臣で、もとは家中においてかなりの武功を挙げたことで徳川二十将の一人として数えられる人物です。

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