戦争は始めるより終わらせる方が難しい!では戦国時代はどのように「停戦」にこぎつけていたのか? (3/4ページ)

Japaaan

武田勝頼像

そして同年6月、本能寺の変で織田信長が横死すると、武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生します。

さらに同年8月に、甲斐では徳川家康と相模国の北条氏が対峙する事態になりました。

甲斐に在国していた武田遺臣の多くは動向を注視していましたが、8月12日に黒駒の合戦で徳川勢が北条方を撃破すると、家康に臣従することを決めます。

その際に、数名から数十名のグループごとに起請文を提出し、家康への忠誠を誓ったとされています。

切り札としての人質交換

天正壬午起請文は、この時に提出された起請文を編集したもので、終末期の武田家臣団を知る史料として活用されています。

戦国時代は、こうした起請文なども活用しながら停戦の申し合わせを行っていたのです。

とはいえ、時代は乱世。起請文などと言ってもしょせん紙切れに過ぎないと言ってしまえばそれまでです。相手がいつ裏切るかは分かりません。

そこで切り札となるのは、子供を結婚させたり、お互いの子を養子に出すなどの縁組です。起請文の取り交わしとあわせて、こうしたことが同時に行われることも珍しくありませんでした。

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