さすがの徳川家康、貨幣制度まで統一!江戸時代はどのような貨幣が流通していたのか?

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さすがの徳川家康、貨幣制度まで統一!江戸時代はどのような貨幣が流通していたのか?

金・銀・銭が使われた江戸時代の三貨制度

日本では、大昔に発行された皇朝十二銭以降、長い間公的な通貨が発行されませんでした。

経済取引が活発化した室町時代も、中国の貨幣が日本国内の商業取引で使われたりして、日本独自の通貨制度が確立されていたとはとても言えません。

なぜか”中国の貨幣”が流通していた室町時代…幕府はなぜ自前の貨幣を造らなかったのか?

また、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、天正大判金を作らせていますが、これも流通させることが目的ではなく通貨とはいえませんでした。

このように、それまでの天下人が成し遂げられなかった「日本の金銀の通貨制度の統一」を果たしたのは、誰あろう徳川家康です。1601(慶長6)年、彼はようやく全国に流通する貨幣を作りました。

静岡駅前の徳川家康像

さらに、三代将軍徳川家光の時代である1636(寛永13)年には寛永通宝という銭の発行がはじまり、ここでようやく江戸時代の貨幣制度が整えられたのです。

これは驚き!江戸時代の貨幣「寛永通宝」はなんと昭和時代まで使われていた

銭の素材の大部分は銅なのですが、オリンピックのメダルのように金・銀・銅とはいわず、「金・銀・銭」と呼ばれました。

藩札

現在は紙で作られた紙幣も存在しますが、江戸時代には公的な紙幣はありませんでした。ただし藩や旗本領内など、流通する範囲が限定される「藩札」「旗本札」と呼ばれる特殊な紙幣が作られています。

現在とは全く異なる単位

現在の日本では、十進法の通貨単位である「円」が導入され、とても計算しやすくなっていますね。

一方、江戸時代の貨幣袋位は金貨・銀貨・銭貨で異なり、しかも十進法と四進法を組みせたものでした。

単位についても現在とは大きく異なり、金貨には大判金小判金があり、おもに「両」が単位として用いられています。

しかし、日常生活ではもっと細かい単位の貨幣が必要だったため、日用品の売買などには分朱文の単位が用いられました。

分と朱はおもに金貨(のちには銀貨も)・文銭貨の単位で、原則として一枚を一文と数えました。また銀貨については、「匁」という単位も用いられました。

貨幣の品質・流通を管理する組織の設置

徳川家康は、金銀の貨幣制度の統一に着手するとともに、全国の金銀鉱山を直轄化します。そして貨幣をつくる技術を管理し、金貨・銀貨の製造体制を整備しました。

江戸時代に金貨・銀貨・銭貨の三種類の貨幣が用いられてのは前述の通りですが、さらに家康は、それぞれの原材料の購入や鋳造、品質を管理する金座・銀座・銭座と呼ばれる組織をつくりました。

これらは現在の造幣局のようなものです。

OAPタワーから南望する造幣局本局(Wikipediaより)

金座は大判以外の金貨の鋳造や管理を行っていた役所で、1595(文禄4)年、康が天正大判金をつくった後藤徳乗の弟子・後藤庄三郎光次を京都から招き、小判を鋳造させたことから始まりました。

金座は江戸(東京都)京都・駿府(静岡県)・佐渡(新潟県)の四か所に設けられましたが、のちに江戸に統合されました。

金座があった辺りは、当時は本両替町という地名でしたが、現在は日本橋本石町になっています。金座の跡地には日本銀行が建てられています。

参考資料:執筆・監修 阿部泉『明日話したくなるお金の歴史』清水書院、2020年
画像:photoAC,Wikipedia

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