高い地位より剣の道!戦国時代、”最強の剣豪”と称された上泉信綱の伝説・エピソードを紹介

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高い地位より剣の道!戦国時代、”最強の剣豪”と称された上泉信綱の伝説・エピソードを紹介

剣の腕前がすばらしかった人は、日本の歴史上多くいます。以前ご紹介した塚原卜伝(つかはらぼくでん)もその一人であり、最強とも呼ばれています。

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そんな塚原卜伝と並び、戦国時代の最強の剣豪と称されるのが、今回の記事でご紹介する「上泉信綱(かみいずみのぶつな)」です。彼は、塚原卜伝と比べるとやや知名度では劣るかもしれませんが、さまざまな伝説を残している人物でもあります。

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※名前の読み方については、「こういずみのぶつな」とする場合もありますが、今回の記事では「かみいずみのぶつな」の表記で統一しています。

上泉信綱(かみいずみのぶつな)はサラブレッド!

上泉信綱は、1508年(永生5年)に上州・大胡(おおご)城主の上泉秀継(ひでつぐ)の子どもとして生まれました。彼は次男でしたが、長男が早くに亡くなったため、21歳で跡継ぎとなりました。

幼いころから兵法(剣法)興味を持っていた彼は、鹿島に通い、塚原卜伝の師匠でもあった松本備前守政信(まつもとびぜんのかみまさのぶ)から剣と槍を学びました。

また、祖父も父も剣の腕前は一品。さらに、大胡城内にあった剣術道場は、達人が営む「剣術の聖地」として、各地から剣の腕前に自信がある武士たちが集まる環境でした。

陰流の奥源を究め、新陰流を大成したことが彼の大きな功績です。しかし、文武両道でもあった彼は、ほかにもさまざまなエピソード・伝説を残しています。

上泉信綱(かみいずみのぶつな)の最強エピソード

たとえば、彼は城主として、武田信玄軍と激しい戦いを繰り広げ「上野国一本槍」と呼ばれました。また、弟子たちと京都に上った際には、将軍・足利義輝の前で試合を行い、「古今比類なし」と絶賛され、「上泉伊勢守兵法天下一」と感状を受けています。

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さらに、武田信玄は彼の腕前を高く買っており、臣下にしたいと思っていました。しかし、上泉信綱はその誘いを断ります。「新陰流の普及」が彼の第一の願いだったことが理由だと言われています。

その理由に感銘を受けた武田信玄は、「信玄」の「信」の文字を彼に与えました(それまで、上泉信綱は上泉秀綱(かみいずみひでつな)という名前でした)。

上泉信綱(かみいずみのぶつな)が残した名言

上泉信綱は、名言も残しています。たとえば、

「人は天地の塵ぞ 塵なればこそのいのちをおもいきわめ、 塵なればこその重さを知るがよい 塵となりつくして天地に呼吸せよ 。ふたたび、出会うこともあるまじ さらば、さらば」

というもの。

「人は塵のような存在であることを自覚し、何ひとつ所有できず、いつ消えてもおかしくないことを知るべきだ。しかし、その塵は天地にはどうしても必要なものであり、塵のいのちの重さを知りなさい。天地を自分と心得て、自分にしかできない役割を生きなさい。」といった意味です。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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