鉄砲が伝来した時、種子島の人はポルトガル人とどうやって会話したの?素朴な疑問の解答がこちら
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素朴な疑問
日本史で鉄砲伝来という場合、狭義では16世紀に日本の種子島(当時は大隅国、現在の鹿児島県)に伝来した事件を指します。当時ヨーロッパから東アジア全般へ火縄銃が伝わっており、広義ではこうした世界史的な動向も鉄砲伝来として捉えられます。
この「伝来」によって、現物の火縄銃のほか、製造技術や射撃法なども伝わっていきました。
もっとも、日本に鉄砲が伝わった年代については諸説あります。その中でも特に有名なものが1543年(天文12)に、種子島に漂着した三人のポルトガル人によって日本にもたらされたというものです。
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しかしここで素朴な疑問が湧きます。その時、種子島の人々はポルトガル人とどうやって話をしたのでしょうか?
かつての教科書では…この頃、日本にポルトガル語を話せた人物がいたはずはありませんし、ポルトガル人が日本語を話せたはずもありません。
私個人の話になりますが、小学校の頃の日本史の教科書には、この時のシーンを描いたイラストが載っていました。そこではポルトガル人と日本人が、砂浜で筆談をしている様子が描かれていました。
小学生だった当時は、「なるほど、こうして筆談で絵でやり取りすれば話もできるだろう」と納得したものです。
しかし、この「ポルトガル人と砂浜で筆談した」というエピソードが正確ではないことは、今ははっきりしています。
実は、この時ポルトガル人が乗っていた船には中国人も乗っていました。中国人と日本人なら、会話はできなくとも筆談ができます。
ポルトガル人との間で筆談が用いられたのは本当ですが、そこでの会話は「通訳」を介したものだったのです。
こうして鉄砲は「伝来」したもともと、彼らが種子島に来たのは、シャムから中国に向かう途中で暴風雨に遭遇し、船が漂着したためでした。
漂着した砂浜の上で、種子島の人々は杖を使って砂に字などを書いて中国人乗組員と筆談を交わし、船に西洋から来たポルトガル人が乗っていることや、彼らが鉄砲を持っていることを知ったのです。
鉄砲の伝来について記した『鉄炮記』によれば、ポルトガル人は鉄砲を時の島主である種子島時堯の前で撃ってみせたといいます。
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その威力に驚いた時堯は、2000金を投じて鉄砲二丁を譲り受けました。
戦国時代の日本に火縄銃が伝わった経緯とその後の「銃規制」の顛末そして時堯は自ら練習を重ね、ついには百発百中の腕前となると同時に、家臣に火薬や鉄砲の製造法について学ばせ、まもなく国産化することに成功しました。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む 雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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