実はかなりの強引手段だった!江戸時代の盗賊はめちゃくちゃ重い「千両箱」どのように盗んだのか?

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実はかなりの強引手段だった!江戸時代の盗賊はめちゃくちゃ重い「千両箱」どのように盗んだのか?

盗賊が狙った千両箱

江戸時代には千両箱というものがありました。小判が1000両分詰まった箱で、大名屋敷に忍び込んだ盗賊の狙いはこの千両箱でした。

市川小團次が演じる鼠小僧(2代目歌川豊国画)Wikipediaより

「千両箱を盗む盗賊」と言えば、すぐに皆さんが思い浮かべるのは鼠小僧次郎吉でしょう。彼は夜な夜な大名屋敷から千両箱を盗み取り、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったという有名な話があります。

もっとも、本当は鼠小僧次郎吉は義賊でもなんでもなく、全部フィクションであることが明らかになっていますが……。

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ところで、この千両箱はどれくらいの重さだったのでしょうか。

時代劇では、盗賊が千両箱を肩にひょいと乗せて、屋根から屋根へ伝って逃げていくシーンがありますが、あれは不可能な話です。それくらい千両箱は重かったのです。

重すぎる千両箱をどうやって盗むか

たとえば、金が86%含まれていた慶長小判は、一枚が17.73グラムです。それが千枚となると約18キロになります。しかも、千両箱の頑丈な木箱そのものが3~4キロはあったため、合計20キロ以上になります。

20キロというのは、飛行機に乗るときに預けるスーツケースの重さくらいです。とても、肩に担いで身軽に跳びはねられる重さではありません。

大坂の豪商鴻池家で使われていた千両箱(Wikipediaより)

また、千両箱といっても中には2000両入りや5000両入りの大箱もありました。そういう大金入りの千両箱は箱自体も重くなるため、鍛え抜いた盗賊でも抱えたまま屋根の上を走り去り、地面に飛び降りるなどということは不可能だったはずです。

では、どのように持ち去っていたのでしょうか?

真相はというと……

盗賊は集団で押し込み、家人らを殺傷したり、縛りつけてから、荷車などに千両箱を積み込み、悠々と地面を伝って逃走したのです。

こうした盗賊たちにとって、武家、特に中規模以下の武家屋敷は格好の狙い目でした。

つまり、家臣を多く雇うほどの経済力がないので盗賊団は反撃されるリスクが少ないです。一方で武家は体面を気にするため、表沙汰にしないことが多いというメリットがありました。

江戸時代の有名な盗賊・日本左衛門の「首洗い井戸」の碑がある徳之山稲荷神社(Wikipedia)

しかも、江戸時代というのは現代の警察のような統一された司法組織がない社会だったのも致命的でした。

特に武家屋敷の場合は、幕臣である旗本や御家人と、地方の藩だとその司法管轄が全く異なることから取り締まりもややこしくなったのです。

そのため隠蔽されたりすることも多く、こうしたところに盗賊団が暗躍する土台のようなものがあったのでしょう。

参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む 雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia

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