ライト兄弟より先に飛行機の原理を発見し、日本の航空技術を切り拓いた二宮忠八の功績【後編】 (2/3ページ)
当時の日本政府は フランスなど先進国の航空技術を取り入れて軍用飛行機を開発 する方針を採り、個人発明家が飛行機を開発する余地はほとんどなくなってしまいました。こうして 8号機計画は幻に終わります。
その後も忠八は航空業界の動向を調査し、若い技術者に助言を送るなど、航空技術への情熱を持ち続けました。1933年には自らの研究記録を整理し、「自分こそが飛行機の発明者だ」と公表します。
1935年にはようやく、 日本航空協会が彼の功績を正式に認め表彰しました。翌年には 英国王立航空協会が彼を「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」として紹介しています。
1936年、忠八は、ライト兄弟に先んじて飛行機を考案しながらも実用化できなかったことに対する無念を抱えたまま生涯を終えました。
新しい技術や発明は、最初は理解されないことが多いものです。しかし、それが 後に世界を変える可能性を秘めていることも忘れてはなりません。二宮忠八のこのエピソードは、 革新的なアイデアを持つ人々を支援することの大切さを教えてくれます。
もし、当時の日本が彼を認めて支援していたら、世界初の飛行機は日本で誕生していたかもしれません。
飛行機の発明以来、航空事故が相次ぐ現状に心を痛めた忠八は、事故犠牲者の慰霊こそが飛行機開発に携わった者としての責務だと考えました。彼は多くの犠牲者を弔うため、1915年に京都府八幡市に飛行神社を設立。私財を投じて社殿を建て、自ら神主となり、航空安全と犠牲者の慰霊に尽力しました。