鬼平・長谷川平蔵が奉行になれなかった理由。時の老中との微妙な関係が平蔵の運命を分けた【後編】

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鬼平・長谷川平蔵が奉行になれなかった理由。時の老中との微妙な関係が平蔵の運命を分けた【後編】

出世できなかった「今大岡」

【前編】では、長谷川平蔵が時の老中・田沼意次に引き立てられて出世し、その後は松平定信から解任と再任をされていたことを解説しました。

鬼平・長谷川平蔵が奉行になれなかった理由。時の老中との微妙な関係が平蔵の運命を分けた【前編】

【後編】では、その実態について見ていきましょう。

こうした史実に基づき、池波正太郎の『鬼平犯科帳』では、平蔵の働きぶりが他に代えがたいため、いったんは休養を採る意味で解任されたものの、すぐに再任されたというストーリーになっています。

実際、平蔵の働きぶりは江戸の庶民からも称賛されていました。当時の社会風俗が記されている『わすれのこり』には、平蔵の活躍について「賞罰正しく、慈悲心深い。幾知に富んだ裁きが多く、人々は今大岡(現代の大岡越前)と呼んだ」とあります。

しかしここで疑問が残ります。それほどの働きぶりで、彼はなぜ奉行職に就けなかったのでしょうか。

そもそも、当時の火付盗賊改は臨時の兼任職であり、通常なら2〜3年で交代するものでした。この任を全うした者はその後、京都や大坂の町奉行や、奈良や堺の奉行に栄転するのが通例だったのです。

そうした通例に照らし合わせると、いくら働きぶりが目覚ましく他に代えがたいと言っても、平蔵が約10年も火付盗賊改を続けたのはちょっと異常です。

その理由は老中・松平定信にありました。実は、平蔵は定信から嫌われていたため出世できなかったというのが本当のところだったのです。

潔癖ゆえの嫌悪感

ご存じの方も多いかも知れませんが、『鬼平犯科帳』の「礼「金二百両」」という話には、火盗改の資金不足を補うために平蔵の妻・久栄が母の形見の櫛を売ろうとするエピソードがあります。

実際、平蔵は資金繰りに悩まされていました。彼は無宿の更生施設である人足寄場の運営資金を補填するために、銭相場で稼いでいたといわれます。

ここで思い出してほしいのですが、当時の老中・松平定信という人は田沼意次時代の賄賂政治を批判し、清廉潔白な政治社会を目指した人でした。

相良城址の田沼意次像

そのあまりの潔癖ぶりから、「白河(松平定信)の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼(田沼意次)こひしき」と揶揄されたことすらあるほどです。

その定信からは、銭相場で金儲けを行っている平蔵はとても卑しい人物に見えたのでしょう。こうした点が不興を招き、平蔵は奉行まで出世できなかったのです。

そのままにさせておいた

実際、松平定信の自伝には、平蔵についてその功績を認める一方でこう書き記されています。

「長谷川何がしという者は、功利をむさぼるために山師(相場師)などというよくないこともあるようで、人々は悪くいう。ただし、このような人でなければ人足寄場はできないだろうと試しにやらせてみた」

定信は、このように清濁併せ飲むスタイルで世間に通じていた平蔵に対して長谷川何がしと言葉を濁すほど嫌悪感を露わにしています。名前すら呼びたくなかったのです。

こうしたことが平蔵の出世に影響したのでしょう。そして、同時に火付盗賊改の実績が大きかったことから、そのままにさせておいたのだと思われます。これが、平蔵の在任期間の異例の長さにつながったのです。

『鬼平犯科帳』の世界を再現した羽生サービスエリア

寛政7年(1795年)、平蔵は火盗改の激務が祟ってか、在任中に体調を崩して職を辞した3日後に亡くなっています。その死は江戸の多くの人々から惜しまれました。

こうして見ていくと、長谷川平蔵は、教科書にも出てくる田沼意次・松平定信の施政方針と運命を共にするような人生だったことが分かりますね。

参考資料:縄田一男・菅野俊輔監修『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』2023年、宝島社新書

画像:photoAC,Wikipedia

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