非業の死を遂げた吉原遊女の霊を慰める「玉菊燈籠」とは?その始まりを紹介!【大河べらぼう】

NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第9回放送は「玉菊燈籠(たまぎくどうろう)恋の地獄」。2週連続で吉原遊郭の闇が浮き彫りにされていくようです。
前回放送の解説はこちら↓
遊女を身請けする相場は?鳥山検校(市原隼人)は何者?ほか…【大河べらぼう】2月23日放送の解説&振り返りところでこの玉菊燈籠とは一体なんでしょうか。調べてみたところ、吉原遊郭ではお盆になると、非業の死を遂げた遊女・玉菊の霊を慰めるために燈籠を掲げたのだとか。
果たして玉菊とはどのような女性で、いつごろ活躍したのでしょうか。今回は遊女・玉菊について紹介します。
ルックスよりも人柄と才能で人気者に
玉菊は元禄15年(1702年)に生まれ、享保年間(1716~1736年)初期に吉原遊郭へ売られてきたと言います。
角町(すみちょう)にある中万字屋勘兵衛(なかまんじや かんべゑ)抱えの遊女となりましたが、あまり美人ではなかったのだとか(失礼な!)。
しかし性格のよさと多芸多才で人々から慕われ、その器量は吉原遊郭でも並ぶ者なしと評判を呼びます。
玉菊が得意としたのは茶の湯・生け花・俳諧・琴曲、中でも河東節(かとうぶし。浄瑠璃の一種)の三味線と拳相撲(けんずもう)の妙手でした。
拳相撲とは御座敷遊びの一種。単なる手遊びですが、彼女は黒いビロード(天鵞絨)に金糸の紋を縫い取らせた拳回しを作ったそうです。
要するにmyグローブですね。きっと彼女がこの拳回しを着けて勝負に挑むと、周囲から期待の歓声が上がったことでしょう。
大酒が過ぎて生命を落とす
玉菊は誰に対しても気さくに分け隔てなく接し、お客を断るにしても手厳しく振るようなことはなく、また歎ヶ敷(なげかわしき)心も起こさず真面目に勤めあげました。
そんな玉菊でしたが、彼女は大酒呑みとしても知られ、彼女を描く美人画はたいてい酒盃などが描き添えられています。
やはり吉原遊郭での暮らしにストレスが溜まっていたのでしょうか、20歳となった享保6年(1721年)、重病に伏せってしまいました。
この時は何とか平癒したものの、その後も酒はやめられなかったようで、享保11年(1726年)3月29日に25歳の若さで世を去ってしまったのです。
かくして浅草光感寺(東京都台東区松が谷)に葬られた玉菊。彼女のために袖を絞らぬ者はありませんでした。
死後も慕われた玉菊そんな享保11年(1726年)の7月になると、吉原遊廓の茶屋では誰ともなく燈籠を掲げて玉菊の霊を慰めます。

生前からよほど慕われていたのでしょう。これが吉原三景容(三つの名物)の一つ・玉菊燈籠のはじまりでした。
……扨其年七月も近く玉菊の新盆になり、恩を受しもの、みな恩送りに燈籠または切子提灯を出し、玉菊追善の賑々敷事貴賤群集せし頃は、享保年中なり、是より吉原燈籠初りしなり……
※『江戸節元根記』より
また玉菊の三回忌となる享保13年(1728年)のお盆には、男芸者の十寸見蘭洲(ますみ らんしゅう)が河東節の傾城水調子(けいせいみずぢょうし)を演奏。すると玉菊の霊が現れたと言われます。
燈籠に なき玉きくの くる夜かな
※歌川豊国「古今名婦鑑 中万字の玉菊」
彼女も生前に三味線をよくしたと言いますから、きっと喜んでくれたのでしょうね。
終わりに
(9)玉菊燈籠恋の地獄
初回放送日:2025年3月2日
蔦重(横浜流星)は瀬川(小芝風花)の身請け話を耳にして、初めて瀬川を思う気持ちに気づく。新之助(井之脇海)はうつせみ(小野花梨)と吉原を抜け出す計画を立てるが…※NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより
今回は玉菊燈籠の由来となった遊女・玉菊の生涯をたどってきました。
お盆の夜を照らす玉菊燈籠は、非業の死を遂げた吉原遊女たちの亡霊を慰めたのかも知れません。
何となく、うつせみと新之助の最期を暗示しているようですが……果たしてどうなるのか、見届けて参りましょう!
※参考文献:エディキューブ 編『図説 吉原遊郭のすべて』双葉社、2022年1月
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