定説、覆る!戦国時代「川中島の戦い」で武田信玄と上杉謙信は実際に何回戦ったのか?

義を貫いた謙信の戦い
戦国時代の合戦で有名なものを挙げるとすれば、「川中島の合戦」は外せません。甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信という二人の名将が激突したこの戦いは、多くの日本人に愛されています。

故人春亭画 応需広重模写「信州川中嶋合戦之図」(Wikipediaより)
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永遠のライバル!武田信玄VS上杉謙信の川中島の戦いを改めて振り返る【その1】理由の一つは、信玄と謙信がほぼ同時代を生きた良きライバルだったからでしょう。
さて通常、合戦は領地を巡って行われます。版図拡大を目指す者と自国を守る者がぶつかり合うのが一般的ですね。
ところが、謙信は違いました。川中島は北信濃の千曲川と犀川に挟まれた要衝の地ですが、信玄の領地でも謙信の領地でもなかったのです。
当時、信濃国は特定の有力大名が支配せず、複数の豪族が分有していました。
そこへ目をつけた信玄が信濃侵略を目指して出陣したのに対し、謙信は村上義清や小笠原長時など豪族からの要請を受けて出陣したのでした。
出陣前、謙信は義清にこう語っています。「信玄がのちの勝ちを大切にするのは、国を多く取りたいという気持ちがあるからだ。私には国を取る考えはなく、のちの勝ちも考えない」。謙信は「義」を重んじる武将として知られ、川中島の合戦もまた、正義のための戦いだったのです。
五回にわたる「名勝負」?川中島の合戦が人気のもう一つの理由は、五回も行われたことです。一回では雌雄を決することができない名勝負だったからこそ、後世に語り継がれています。
定説では、1553年(天文22年)、1555年(弘治元年)、1557年(弘治3年)、1561年(永禄4年)、1564年(永禄7年)の五回とされています。
しかし異説も多く、例えば1547年(天文16年)から1561年までに二回という説や、有名な永禄4年の合戦のみとする説が存在します。
他にも二回説、三回説、あるいはもっと多い回数を主張する説まであり、実に多様です。
実はまとめて一回だけでは、五回の合戦とはどんなものだったのでしょうか。
第一回目では、謙信が武田軍を撃破し、武田軍は甲府に退却しました。しかし、再び出陣した信玄と川中島西方の布施(篠ノ井)で戦い、今度は上杉軍が退却しています。
第二回目では、両軍が犀川を挟んで対陣し、激戦の末に30日間(あるいは100日間とも)睨み合いました。信玄が今川義元に調停を依頼し、両軍は和を結んで撤退したのです。
第三回目は、信玄が犀川北方の葛山城を攻めたため謙信が出陣。川中島北方の上野原で戦闘がありましたが、大きな損害はありませんでした。
第四回目は、「キツツキの戦法」や信玄と謙信の一騎討ちが伝えられ、武田勢が勝った説と上杉勢が勝った説がありますが、決着はつかず。

そして第五回目では、両軍が川中島を挟んで60日間睨み合っただけで終わりました。
こうして見ると、本格的な合戦といえるような戦いは永禄4年の合戦のみで、5回の合戦の中にはにらみ合っただけのものもあります。
結局、川中島の合戦は5回の合戦を一連の合戦とみるべきなのでしょう。
参考資料:日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い! 変わる日本史』宝島社 (2014/8/20)
画像:photoAC,Wikipedia
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