【大河べらぼう】蔦重とのコラボにネット歓喜!朋誠堂喜三二こと平沢常富(尾美としのり)とは何者なのか? (3/4ページ)
いくつ名前があるの?使い分けた多彩な名前
平沢常富は様々なペンネームを使い分けたことで知られており、有名なものでもこれだけありました。
朋誠堂喜三二:戯作者として。 手柄岡持(てがらの おかもち):狂歌師として。 楽貧王(らくひんおう):狂歌師として。 亀山人(きさんじん):青本作家として。 道陀楼麻阿(どうだろう?まぁ):滑稽本作家として。 雨後庵月成(うごあん げっせい):俳人として。 朝東亭(ちょうとうてい):同じく。 平角(ひらかく、へいかく):通称。平格とも。 知足(ちそく):字。 愛洲(あいす):号。祖先の苗字から採った。 平荷(へいか):隠居号。通称とは元服(成人)した男性が諱(いみな。実名、忌み名)を直接呼ばぬようにつけた名前で、公文書などにも多く記載されています。
字(あざな)とは中国大陸の習慣で、こちらも成人男性の諱に代えて呼ぶ名前でした。
それにしても、どうだろう、まぁ。実に多くの名前を使い分けていたのですね。
自分や周囲がこんがらがってしまうことはなかったのでしょうか。
筆者の個人的には、楽貧王(貧乏を楽しむ者こそ、真の王)という名前がお気に入りです。
寛政の改革を批判してお叱り?とまぁこんな具合にお江戸を賑わせていた平沢常富ですが、田沼意次から松平定信に政権が移り変わると、何だか息苦しくなってまいりました。
いわゆる寛政の改革(質素倹約・文武奨励政策)が推し進められる中、これを風刺する黄表紙『文武二道万石通』を執筆します。
言わなきゃいいのに、言わずにはいられなかったのでしょうね。
かくして天明8年(1788年)、主君である久保田藩主・佐竹義和からお叱りを受けたそうで、平沢常富は戯作者を引退。以後はもっぱら狂歌師として活躍しました。
そして文化10年(1813年)5月20日、79歳で生涯に幕を下ろします。
戒名は法性院月成日明居士(ほっしょういん げっせいにちみょうこじ)、東京都江東区三好にある一乗院に眠っているそうです。