「大化の改新」は後世の創作!?「乙巳の変」に秘められた謀略をめぐる最新学説を紹介【後編】

改革への疑問の始まり
【前編】では大化の改新の概要と、その前後の中大兄皇子の行動について説明しました。
※【前編】の記事↓
「大化の改新」は後世の創作!?「乙巳の変」に秘められた謀略をめぐる最新学説を紹介【前編】【後編】ではこの改革への疑問と最新の説について見ていきましょう。
近年、「大化の改新」の内容を疑う専門家や研究者は少なくありません。また、中大兄皇子が即位しなかった理由にも疑問が付されています。
まず疑問の一つとして、皇極天皇が乙巳の変の2日後(入鹿の父・蝦夷が自殺し、蘇我氏宗家が滅んだ翌日)、慌ただしい状況の中で皇位を軽皇子に譲ったことが挙げられます。なぜ天皇はそんなに譲位を急いだのでしょうか。その理由について『日本書紀』に記載はありません。

皇極天皇は入鹿暗殺に加担していなかったとされており、退位することで責任を取る必要はありませんでした。大きな失政があったわけでもないのに、この時期に譲位する理由はなかったのです。
しかし、譲位が既定路線だったとしたら話は別です。つまり、皇極天皇が入鹿暗殺計画を事前に知っており、蘇我氏滅亡後に軽皇子に譲位することが最初から決まっていたということです。
即位できなかった?中大兄皇子が即位しなかった理由についても、孝徳天皇を傀儡に立てて皇太子として実権を握るためだったという従来の定説を疑う専門家や研究者は少なくありません。
文教大学教授の中村修也氏は「『皇太子』という存在が、大王(天皇)権力を超えて実権を握った例はない」と述べています。
確かに、中大兄皇子が中央集権国家を築こうとしていたなら、孝徳天皇を傀儡に立てるような回りくどい方法よりもストレートに自分が即位して全権を握った方が改革はしやすかったでしょう。
そこで、中大兄皇子は即位しなかったのではなく「できなかった」のではないかという説があります。
当時、中大兄皇子は20代の若輩であり、蘇我氏滅亡という大事件の後に諸豪族をまとめ、国家を建て直す大事業を行うのは困難でした。

つまりことの真相は、最初から入鹿暗殺の首謀者である軽皇子への譲位が決まっており、中大兄皇子への譲位の打診はそもそもなかったのではないか、ということです。
中村氏は「中大兄が孝徳天皇の『皇太子』となっていることも虚構の可能性が高い」としています。
皇子が譲位を固辞したという『日本書紀』の記述は、入鹿暗殺の立役者を中大兄皇子にした「作り話」の一部にすぎなかったということです。
入鹿暗殺後に皇極天皇から軽皇子へ譲位することが決まっていたからこそ、譲位の手続きは慌ただしく行われたのでしょう。
「改新の詔」も創作か次に、大化の改新の中心である改新の詔ですが、これも現在は「後世に粉飾されたもの」という説が有力です。その根拠を整理しましょう。
まず、詔の4か条の中に、後世に制定された法典の文章と同一または類似する文章があることです。詔の第3条に田租に関する記述がありますが、これは701年(大宝元年)の大宝令や718年(養老2年)の養老令の文章と同一です。
また、詔の第2条に地方制度の郡に関する記述がありますが、「郡」という文字は当時まだ使われていませんでした。当時、木簡には「郡」にあたる文字が「評」と表記されていました。
従って、改新の詔は後世に作られたものであり、当時存在していたのかどうかも疑わしいとされているのです。

また、大化の改新で戸籍が作製されたと伝えられていますが、その実態は戸数調査程度だったのではないかという指摘もあります。
まとめれば、大化の改新の政策が実施された確かな史料は存在しておらず、孝徳朝で大きな政治改革が行われたというこれまでの定説は、今では支持されていないのです。
ちなみに、大化の改新が日本の歴史で評価されるようになったのは江戸時代のことでした。1848年(嘉永元年)に紀伊藩士の伊達千広が著した歴史書『大勢三転考』で初めて評価されたのです。
実は、それまでも大化の改新は『日本書紀』編纂時に捏造されたものと考えられていました。
こうして見ていくと、「大化の改新」を一大政治改革として評価するのは比較的最近の出来事であり、もともと史的事実としての信憑性も疑わしいと考えられていたことが分かります。
参考資料:日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い! 変わる日本史』宝島社(2014/8/20)
画像:photoAC,Wikipedia
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