源義経の「鵯越の逆落とし」は実行不可能だった!?「一ノ谷の戦い」で平氏が敗れた本当の理由とは?【前編】 (2/3ページ)
一方、平氏は都落ちして讃岐国屋島(香川県高松市)にいましたが、二月、京を奪回しようと数万騎の軍勢で摂津・福原に進軍。摂津と播磨の境の一ノ谷(神戸市須磨区)に城郭を構えました。
また平氏は海上にも兵船を浮かべ、陸上の軍勢と呼応できる体制を敷いていました。まさに難攻不落の構えです。
範頼と義経の追討軍は、範頼が海側から、義経が丹波の山側からそれぞれ一ノ谷へ向かい、二月七日に海と山の両側から一斉に平氏の軍勢を襲う手はずになっていました。
鵯越の逆落とし二月六日、平氏が平清盛の三周忌を終えた翌日の早朝、義経の軍勢は夜が明けるのを待たずに急襲します。
義経の軍勢は熊谷直実・平山季重らが率いる70余騎が海側に回って、範頼の軍勢とともに平氏を襲いましたが、義経は一ノ谷の背後にそびえる鵯越に向かい、そこから一気に攻め降りました。
この時の一ノ谷の戦いで義経が採った奇襲戦法は鵯(ひよどり)越の逆落としとしてよく知られています。