波乱と苦難…なんと10年もの過酷なサバイバル生活!江戸時代の漂流民・大黒屋光太夫の生涯【後編】 (4/5ページ)
光太夫は求められるままに仔細を話したほか、この機を逃すまいと、帰国の意思を精一杯主張しました。果たして彼らの帰国は許されるのでしょうか…?
ついに帰国へその日から4ヶ月、またもや音沙汰のない苦しい日々を送ったのち、ついに念願の日がやって来たのです。ペテルブルクに呼び戻された光太夫は、「日本漂流民の帰国の願いを許す」という待ちわびた沙汰をついに受けたのです。
この裏では、日本漂流民の送還が日本との貿易のきっかけになるかもしれないという思惑もあったのですが、兎にも角にも光太夫らは帰国できる事になったのです。
年が明けて寛政4年(1792)9月13日、光太夫らはオホーツク港を日本に向けて出航しました。
ただし、凍傷で片足を失った庄蔵は、もはやこの体で日本に帰国する事は不可能と判断し、早い段階でロシア正教に帰依していました。
また、新蔵という青年も1度病に伏せり、その時に帰国を諦め庄蔵に倣って洗礼を受けました。その後快癒しますが帰依してしまった以上は帰国できない運命を受け入れ、2人で日本人学校の教師としてイルクーツクに永住する事に決めたのでした。
こうして、光太夫含め小市、磯吉の3人のみが日本に送還されました。漂流から実に、9年9ヶ月の歳月が流れていました。
日本でのその後の生活日本に還ったものの、年長の小市は根室で壊血病のため死去。残る光太夫と磯吉は無念な思いを胸に抱えつつ、江戸に送られました。彼等は11代将軍徳川家斉に謁見し、10年に及ぶ漂流生活の詳細と、日本をとりまくロシアほか海外諸国の情勢を語りました。
幕府は2人がもたらした情報を受け、海外諸国に対して防衛意識を強めたといいます。