「凶賊」は実在した!強盗、殺傷、陵辱…江戸の町を震撼させた凶悪犯罪者、真刀徳次郎・葵小僧【前編】

火盗改の面目躍如
『鬼平犯科帳』には、鬼平こと長谷川平蔵による大捕物がいくつも登場します。小説に登場する凶賊たちのモデルになった、江戸を震撼させた凶悪な犯罪者たちをご紹介します。

まずは真刀(神道)徳次郎。この人物は数十人の武装強盗集団の巨魁で、東北や関東一円を荒した広域犯罪集団でした。
出没範囲が広域に及んだため町奉行や代官などでは手に負えず、火付盗賊改の出番となったのです。
『幕府時代届申渡抄録』によると徳次郎の犯行は大胆不敵で、「道中御用」という絵符を立てて帯刀した幕府役人に変装し、百姓家・町家・寺などに押し入るというものでした。
また金銀銭や衣類反物などを奪い取るのみならず、僧侶や百姓も殺傷するという凶悪な賊だったようです。
残忍なだけでなく、火縄を使って錠前の部分を焼き切るなど、高い犯罪技術も持っていたというタチの悪さでした。
徳次郎は盗んだ物を古着屋や市場で売り払って現金化し、部下に分配。一味はこの金を酒や遊びで散財したと伝えられています。
そんな彼らは寛政元年(1789)3月、現在の北大宮駅近くの四恩寺の境内にある闇魔堂に潜伏していたところを捕縛されました。
捕縛当時、徳次郎はみすぼらしい身なりをしていたので、平蔵は新しい着物を与えてやったといいます。その上で町中引廻しの上、大宮宿で斬首されてその首は3日間晒されました。
人々を恐れさせた徳次郎を捕縛したことで、平蔵の火盗改としての能力は世間に知れ渡りました。また真刀徳次郎は、のちに歌舞伎で義賊として演じられるようになります。
鼠小僧次郎吉や日本左衛門もそうですが、犯罪者が後にエンタメ作品で義賊として描かれるのは、江戸時代のひとつのパターンだったようです。
徳川のご落胤を名乗る凶賊『鬼平犯科帳』では、「本物の盗人(義賊に相当)」なら絶対に守るべき盗みの三ヶ条として「人を殺めぬこと、女を手込めにせぬこと、盗まれて難儀をする者へは手を出さぬこと」というものが登場します。
これを守っている犯罪者に対しては、長谷川平蔵は比較的寛容な姿勢で臨んでいます。
こうした意味で、「本物の盗人」とは対極に位置し、その凶悪さから『鬼平犯科帳』の中でもひときわ強烈なインパクトを残すのが葵小僧です。
この葵小僧は実在し、少女から大年増まで必ず陵辱するという凶悪な盗賊団でした。
松平定信の自伝『宇下人言』によると、寛政3年(1791)に一夜のうちに何軒も大店が襲われる被害が1~2ヶ月以上も続きます。
殺しや強姦を好んで行う、まさに鬼平犯科帳でいうところの「畜生働き」の凶賊だったのです。ちなみに強盗・強姦・殺人ですから、現代でも死刑か無期懲役はまず免れません。
そこで、火付盗賊改をはじめとする御先手組全36組が総動員され、厳戒態勢で葵小僧の捕縛作戦を展開。三つ葉葵の駕籠行列が通ったルート上の大店が被害に遭っていることが判明し、一味はことごとく捕らえられました。

葵小僧は徳川将軍のご落胤を自称して「葵丸」と名乗り、移動の際に徳川将軍家の三つ葉葵の御紋が入った立派な駕籠に乗り、徒士侍や中間(奉公人)を揃えた行列で移動していたのです。
鬼平の配慮ところが、これほど世間を騒がせた凶悪犯罪者であるにもかかわらず、葵小僧についての記録はほとんど残っていません。それは葵小僧が捕縛からわずか10日間で獄門に処されたためです。

このような短期間での一件落着は、江戸時代全期を通じて唯一の例だといえるでしょう。なぜこのような処理がされたのでしょうか。
平蔵は通常の捕縛の場合は慎重に詮議しましたが、葵小僧の事件では多くの性被害者が存在していました。
もしも一つひとつの事件の内容を細かく詮議すれば、女性たちが受けた性被害について公式の記録に残り、いずれ白日の元に晒されてしまうことになります。現代でいうところのセカンドレイプが起きてしまうわけです。
異例のスピード判決は、性被害にあった女性たちにさらなる苦しみを与えないようにという平蔵の配慮によるものだったといわれ、『鬼平犯科帳』でもそのように描かれました。
次回の【後編】でも、長谷川平蔵が関わった盗賊たちを紹介します。
参考資料:縄田一男・菅野俊輔監修『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』2023年、宝島社新書
画像:photoAC,Wikipedia
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