南北朝時代の「南朝」はただの亡命政権ではなかった!その実態と北朝との共存関係が明らかに【後編】 (2/3ページ)
南北の合体により、皇位のしるしである三種の神器は、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に譲渡されました。
この結果、南朝は、自らが正統だったという体面を一応は保つことができましたが、結果的には北朝に吸収され朝廷としての実体を失います。北朝と幕府は、名を捨てて実を取ったと言えるでしょう。
血生臭い「その後」さて最後に、その後の南北朝の動向についても見ていきましょう。
南北朝合体の際、皇位は北朝と南朝が交互に継ぐとされましたが、この合意は守られず、北朝だけの継承が続きました。旧南朝の君臣は、皇位回復を求めて蜂起を繰り返しています。
しかも1410~16年には後亀山上皇が再び吉野に潜伏。1428年には伊勢(三重県)の国司・北畠満雅が後亀山の孫・小倉宮を奉じて挙兵しました。これに対して幕府は満雅を討ち、続けて小倉宮たち多くの旧南朝皇族を出家させています。
皇位の望みを絶たれた南朝遺臣は1443年、内裏から神器を強奪して比叡山に立て籠もります。
幕府はこれを朝敵として討伐し、反乱軍が担いだ後村上天皇の曾孫(通蔵主、金蔵主)も殺害されました。
残党が神器とともに吉野の川上にかくまった別の南朝皇族(一宮、二宮)も1457年に討たれ、翌年に神器も取り戻されています。