南北朝時代の「南朝」はただの亡命政権ではなかった!その実態と北朝との共存関係が明らかに【後編】 (3/3ページ)

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その後は応仁の乱(1467~77年)の最中に、西軍が小倉宮の子孫を「南帝」として迎えた記録がありますが、これは一時的なものに終わりました。

朝廷としての実体も権威も失っていた以上、もはや大勢に影響を与えることはなかったようです。

しかし、南北朝が合体したにもかかわらず事態は相変わらず血生臭く、応仁の乱から戦国時代へと続く混乱の火種は、こうした形でずっと燻っていたと言えるでしょう。

祀られる南朝皇族

奈良県川上村には、1457年に討たれた南朝皇族「自天王(尊秀王)」の遺品が伝わっており、毎年2月に地元の人々によって朝拝式が営まれています。

秋の川上村

先述の通り、南朝の流れを受け継ぐ皇族は悲運の最期を遂げたわけですが、自天王もその中に含まれていました。

惨事を伝え聞いた川上郷士たちは、赤松家一党から自天王の御首を取り返し、地元の金剛寺に手厚く葬ったと伝えられています。

御首を奪い返した川上郷士の雄志は代々語り継がれました。その後、長禄三年(1459年)から毎年2月5日になると、この重要文化財である遺品の兜などを拝する式典が行われています。

参考資料:中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
奈良県川上村
画像:photoAC,Wikipedia

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