大河『べらぼう』吉原通いの夫にうんざり!?女性狂歌師として活躍した節松嫁々の生涯をたどる

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大河『べらぼう』吉原通いの夫にうんざり!?女性狂歌師として活躍した節松嫁々の生涯をたどる

飛鳥川(あすかがわ) 内は野となれ 山櫻(やまざくら)
ちらずば寢には 歸らざらまし

※『耳嚢』巻之三

【歌意】飛鳥川の野に咲く山桜があまりに美しいから、散るのを見届けるまでは、寝に家へ帰ることなど出来るものか。

【意訳】亭主が明日には帰ってくるかと思ったら、この通り待ちぼうけさ。あの野郎、我が家がどれほど荒れ果てようが、知ったこっちゃないんだろうね。

まぁどうせ散財の限りを尽くして、一文無しになったら帰ってくるさ……。

夫の吉原遊びにうんざりした様子がひしひしと伝わるこの狂歌。これは江戸を代表する女流狂歌師の一人・節松嫁々(ふしまつの かか)の詠んだ一首でした。

果たして彼女はどんな女性で、どんな生涯をたどったのでしょうか?

狂号の意味と結婚生活

節松嫁々の夫・朱楽菅江。山東京伝筆

節松嫁々は延享2年(1745年)、徳川幕府に仕える小宮山昌俊(こみやま まさとし)の娘として誕生しました。

本名は小宮山まつ、通称を小宮山ちかと言います。

※本名と通称が逆の説もあり。

節松嫁々とは狂歌師としての狂号、朱楽菅江(あけら かんこう。山崎景貫)と結婚してから名乗ったものでした。

【大河ドラマ べらぼう】狂歌ブームの立役者・朱楽菅江とは何者?その生涯をたどる

節松嫁々という名前には、以下のような意味が込められています。

①不始末の嬶(かかぁ。妻)

②臥し待つ(寝て待つ)の嬶

①はちょっぴりおドジだったのか、②は亭主の帰りを待ちくたびれてしまったのでしょう。

そんな健気?な妻に対して、夫はいつも「あっけらかん」と気まま勝手な朱楽菅江。

しょーもないヤツほど放っておけない性分なのか、それとも割れ鍋に綴じ蓋なのか……。

ともあれ夫婦揃って狂歌サークル「朱楽連(あけられん。開けられん)」または「菅江連(~れん)」を結成。多くの門人たちを養成しました。

夫の遺志を受け継ぐ

夫の死後も狂歌界を牽引した節松嫁々(イメージ)

寛政10年(1799年)に夫が先立ってしまいますが、それでも狂歌への情熱は冷めることなく、後進たちの養成に尽力します。

中でも弟子の菊丸には朱楽館(あけらかん)、同じく村竹には芬陀利華庵(ふんだりげあん。踏んだり蹴ったり)の号を襲名させました。

しかし晩年は眼病を患って失明してしまい、孤月尼(こげつに)と号します。孤独な月とは、彼女の心細さを表したのでしょうか。

そして文化7年(1810年)1月9日に世を去ったのです。享年66歳。

花ならぬ ながめもよしや 吉野紙(よしのがみ)

この眼にはるの 朧夜の月

【意訳】花(鼻紙)にはならないが、吉野紙(を貼った襖や障子)はとても綺麗で眺めがいい。この盲(めし)いた眼に貼ったら、春の朧月夜が好める(楽しめる)だろうか。

これは節松嫁々が詠んだ辞世の句。目が見えていないはずですが、あるいは少しは見えている状態も盲目と言ったのかも知れません。

節松嫁々・基本データ 生没:延享2年(1745年)生~文化7年(1810年)1月9日 実名:小宮山まつ 通称:小宮山ちか 法号:孤月尼 職業:狂歌師 所属:菅江連 伴侶:朱楽菅江(山崎景貫) 子女:不明 著作:『はなのしをり(編著)』 備考:晩年に眼病のため失明 終わりに

今回は夫婦揃って狂歌師として活躍した節松嫁々について、その生涯を駆け足でたどってきました。

夫の吉原遊びが絶えず、家の中はしっちゃかめっちゃかでも、お互い凸凹しながら人生を楽しんでいた様子がうかがえます。

果たしてNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」には彼女が登場するのでしょうか。

もし登場するなら、キャスティングも楽しみですね!

※参考文献:

『日本古典文学大辞典簡約版』岩波書店、1986年12月 根岸守信『耳嚢』国立公文書館デジタルアーカイブ

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