北条早雲の“成り上がり伝説”はウソだった!?最新研究で明らかになった北条氏の出自と統治の秘訣
北条早雲は素浪人ではなかった
戦国時代の北条氏と言えば、その初代は北条早雲ですが、その人物像のイメージも近年は大きく変わっています。
※関連記事:
日本最初の戦国大名。戦乱の世に生きた「北条早雲」の生涯【前編】早雲のこれまでのイメージは、素浪人から成り上がり、謀略や奇襲を得意として「梟雄」とも称されたというものです。
しかしこのイメージは『太閤記』を始め、江戸時代の軍記物に描かれたイメージの影響が強いと言えるでしょう。
現在では研究が進み、彼は素浪人どころか室町幕府の政所執事の家系である伊勢氏の出身で、自身も将軍・足利義尚の下で官僚を務めた経歴が判明しています。
姓は伊勢、名は盛時で、出家して早雲庵宗瑞と称したのです。
北条早雲こと伊勢宗瑞像(小田原城所蔵・Wikipediaより)
また早雲は88歳まで長生きしたとされていますが、これも系図などの史料を精査したところ、実際には64歳で死去したことが分かっています。これまでは、生まれ年が誤って理解されていたのです。
どうやら北条早雲の実像については、軍記物に誤った記述がされて以降、明治以降の学者に無批判に信じられたところがあるようです。
類例のないデザインの庭園2013年末には、小田原城(神奈川県小田原市)の御用米曲輪跡の発掘調査で、ひときわ変わった遺構が発見されました。
色、大きさ、形が違う石が地面にパズルのように敷き詰められた、ヨーロッパの石畳を思わせる景観だったのです。
その直前にも、庭園跡では五輪塔(石供養塔)など、四角い部材を並べて護岸にしたタイル張りのような見た目の、類例のない池が発見されていました。
これらは、関東を支配した北条氏が、本拠の中枢に独自の審美眼に基づく庭を造作したことを物語っています。
近年、小田原の発掘では、北条時代に武家の宴会で京都の影響を受けた「かわらけ」と呼ばれる焼き物が使われたことや、京都を模すように正方位を意識した都市計画が行われたらしいことも分かっています。
おそらく、「京都」というブランド力を利用して独自の価値観を創出することで、本拠地を地域の中で秀でた存在として見えるようにし、力を誇示したのでしょう。
「小田原評定」の再評価も5代で約100年にわたった北条氏の治世は、民政重視だったことも改めて注目されています。
例えば五公五民だった年貢率を四公六民に軽減し、裁判制度を整え、水道や伝馬の整備に力を入れて商工業を発展させました。
そうした政策方針の象徴となるのが、北条氏が用いた印判です。虎の絵の下に「禄寿応穏」の文字があり、これは「(民の)禄寿(財産・命)まさに穏やかなるべし」という意味に読めます。
織田信長の「天下布武」とは対照的と言ってもいいでしょう。
また豊臣秀吉の小田原攻めを前に、和戦を巡って延々議論したとされる小田原評定は、後世は結論の出ない会議の代名詞になりました。しかし、それも江戸期の書物の影響が大きいようです。
北条氏は当主の独断でなく評定衆と呼ばれる重臣の合議で重要事項を決める、戦国大名の中では珍しく民主的な仕組みを持っていました。小田原評定はそうした民主的な手続きの象徴だったと言えるでしょう。
当主の独断よりも、より多くの人の考えや生命を重んじる考え方は、戦にも表れています。
秀吉との対決を控えた時は、小田原では城下町を総延長約9キロの堀と塀で囲む総構が築かれました。それ以前も上杉謙信、武田信玄を籠城戦で撃退したことはありましたが、その頃には総構はまだ存在していなかったのです。
これについては、城の外で焼き打ちや略奪を受けたことで、北条が悔いを残したのだと思われます。それで秀吉相手に籠城するにあたり、東国一の都市と領民を守る意識で、巨大な総構を築いたのでしょう。
早雲から始まる北条氏の統治については、このように現在も新しい視点からの研究が進んでいます。
参考資料:
中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
