悲劇の指揮官…中国友好を望むもA級戦犯として処刑された日本陸軍・土肥原賢二がたどった運命 (2/3ページ)
そのため、中国人からの情報が自然と土肥原に集まるようになりました。
もともと彼は人格を重んじる性格で、特に教育方面に高い関心を持っていた人物だったといわれています。
当時の陸軍組織の中では知識偏重のエリート主義意識が強い軍人が多かったのですが、そんな中でも珍しく、玉川学園の小原國芳の唱える新教育の理解者であり、支援者でもありました。
悲劇の指揮官しかし彼が奉天特務機関長となった1931年の9月18日、関東軍は奉天郊外の柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破させます。柳条湖事件です。
関東軍はこれを中国軍の犯行と発表して軍事行動を開始し、満洲事変のきっかけをつくります。そして最終的に満州を占領するに至りました。
この一連の事変と土肥原は無関係だったのですが、奉天特務機関長というポジションゆえに、事件後の2日には満洲事変を主導した石原莞爾と板垣征四郎との会談が行われています。この席で、普段は温厚な土肥原は満蒙五族共和国案を強く推しました。
その後、土肥原は天津にいた清王朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を連れ出し、満洲国の皇帝として擁立します。こうした活躍から、土肥原は「満洲のローレンス」と呼ばれるようになりました。