鳴くまで待とう…などの徳川家康イメージは嘘だらけ!リアリスト・家康の真実の処世術と実像

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鳴くまで待とう…などの徳川家康イメージは嘘だらけ!リアリスト・家康の真実の処世術と実像

人質時代も「国衆」として一定の権力

徳川家康といえば、今川・織田の両勢力に挟まれた三河の弱小領主の跡継ぎというイメージが根強くあります。

徳川家康(Wikipediaより)

幼少期の大半を人質として過ごしたこともあり、そこから忍耐の人という人物像ができあがったのですが、実際には国衆の一人としての力を持っていたことが最近は分かってきました。

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家康といえば〈鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス〉という句が有名です。これは江戸時代に詠まれたもので、家康の性格を表すものとして知られています。

実際、家康の人物像と言えば今でもそんな感じですね。織田信長・豊臣秀吉の活躍に隠れつつ、時機が来るまで待ち続け、最後に天下を取った忍耐の人――。しかしこうした人物像は、徳川氏(松平氏)の始祖・家康を「神君」とあがめた幕府の記録によるもので、必ずしも真実とは言えません。

そうした記録には、将軍家を天下人として正統付けるための創作も多く含まれています。

こうした、いわば「松平・徳川中心史観」を排した実証的な研究が進んだのは1970年代以降のことです。近年は戦国時代の社会論などの研究成果も反映し、より実像に迫った家康像が描かれています。

従来と捉え方が変わってきている例の最たるものが、幼少期の「人質」時代でしょう。

今川・織田の両勢力に挟まれた三河(愛知県東部)の松平氏は、家の安泰のために今川義元へ庇護を求めました。そして家康(当時は竹千代)が数え8歳で今川領駿府(静岡市)に送られたのは、皆さんもご存じの通りです。

それ以降、10歳まで過ごした駿府時代の苦労が強調されることが多いですね。

しかし父の死後に松平家当主となっていた家康は、義元の支援を得つつ、自らの裁断に従うよう命じる「定(さだめ)」を本領である岡崎(愛知県岡崎市)の家臣に出すなど、駿府にいながら領国の運営にあたっていたのが実態でした。

若き日の徳川家康・岡崎駅前の「松平元康」像

このように、今川などの大大名に従属しつつ、小規模の地域を領国として運営する権力は「国衆」と呼ばれ、近年の戦国研究でも実態が明らかになりつつあります。

こうした観点でいけば、当時の家康もれっきとした国衆当主であり、「人質」という言葉にイメージされるような無力な存在ではなかったのです。

秀吉と家康の間の協調関係

また、〈織田がこね羽柴がつきし天下餅ただやすやすと食らふ徳川〉という有名な狂歌が象徴するように、家康は秀吉の死を待って、虎視眈々と豊臣滅亡の謀略を図ったというのが古くからの考え方です。

ただ最近は、関ヶ原合戦で家康の東軍が勝利した後も10年以上もの間豊臣家が存続したことから、徳川・豊臣間で一定の協調関係があったことも指摘されています。

岡崎城公園の徳川家康像

家康は秀吉の生前、秀吉の権威を背景に関東を治めていました。また、秀吉も自身の権力が及びにくい東国の安定について家康を頼りにするなど、持ちつ持たれつの関係だったのです。

さらに秀吉の死後も、家康は豊臣家臣だったという名分を重んじ、豊臣家との共存を模索していました。

しかし、秀吉の跡継ぎである秀頼の成長とともに、豊臣家で再興を期する勢力が活発化。最後は、大坂の陣で豊臣家を滅亡させる道を選択せざるを得ませんでした。

この時に強攻策を取ったのは2代将軍秀忠です。大御所となっていた家康は複雑な思いだったかも知れません。

作り替えられていた駿府城の天守

秀吉との関係を巡っては、家康の本拠地である駿府城で、近年、重要な発掘成果が相次いでいます。

同城で発掘された天正期の天守台石垣は、メインの天守台に加えて小天守台も兼ね備えた最古の例とみられていますが、これは大御所時代の慶長期に破壊され、新たな天守台が築かれていたことがわかったのです。

豊臣期の城をベースにせず、一から城を築いたことには、晩年の家康の思惑が反映されていた可能性があります。

天守台の発掘調査が進む駿府城

こうした事柄から浮かび上がってくる、新しい徳川家康像とはどんなものでしょうか。それは、行ないえる手立てを尽くし努力するものの、最後は破滅を避け、無理押しをせず妥協するという考え方です。

そして次の段階ではその地位を受け入れ、それに応える行動をみせ、機を待って次の行動に出る――。実は家康の処世はこうしたものであり、それは従来のイメージである「狸親爺」でも「神」でもない非常にリアリスティックなものでした。

天下人の真骨頂は、現実主義的に乱世を生き抜く巧みな知恵にあったのでしょう。

参考資料:中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia

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