「江戸は寒村だった」は作られたイメージ!実は徳川家康の江戸入り前から交通・交易の要所だった【前編】 (2/3ページ)

Japaaan

玄関も満足になく、側近の本多正信が「他国からの使者が来た時に、玄関がなくては見苦しい」と整備を進言したほどだったとか。

また城だけではなく、江戸の町自体も寂れた寒村だったとする記録は多くあります。

陸上交通の利便性

しかし、江戸時代に編纂された記録類では、「神君」たる家康の事績を顕彰するあまり、戦国期以前の江戸を相対的に貧相に描く傾向があったのです。

江戸が武家の都市となったのは、平安時代に秩父平氏一族の江戸氏が拠点を置いたことに由来します。室町時代には太田道灌が江戸城を築き、戦国時代には北条氏が支配していました。このような、戦国期以前の街・城づくりも町の発展の礎となっていたのです。

現在の東京・日比谷、丸の内近辺は、江戸時代以前は「日比谷入江」という海だったことはよく知られています。

加えて、近年の発掘では江戸を起点に、川越、練馬といった重要な地域を結ぶ中世の道路跡が相次いで発見されている点も見逃せません。

江戸の街並みのイメージ

江戸の中世以降の発展は、陸上交通の利便性と、日比谷入江を利用する海上交通の結節点という地理的条件に支えられていたのです。

軍事・交易の拠点

さらに、皇居脇の東京国立近代美術館周辺の発掘で、中国陶磁器を含む高級品が出土していることも、流通の要衝だった点を裏付けていると言えるでしょう。

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