「江戸は寒村だった」は作られたイメージ!実は徳川家康の江戸入り前から交通・交易の要所だった【前編】 (3/3ページ)

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道灌が江戸入りした頃は、室町幕府の内部抗争に端を発した享徳の乱が1454年に勃発します。その際、江戸は道灌の主君である扇谷上杉氏が、敵対勢力に対峙するための軍事拠点となりました。

このような戦乱の時代にもかかわらず、当時の漢詩では「商船・漁船が繋留され、日々市を成していた」と、物資が集まり、にぎわう様子が描写されています。

中国・西湖の梅が移植されるなど、禅宗の影響下で、中国の景観を意識した街づくりも行われていました。

戦国時代の1524年には、北条氏綱が江戸城を攻略し、北条氏は小田原に本拠を置きつつも交通利便性の観点から関東各方面に目配りするために江戸を重視しています。

北条氏綱(Wikipediaより)

みすぼらしいという当時の城の評価も、あくまで大坂城など最先端の近世城郭との比較によるもので、軍事・流通の拠点としての重要性は不変だったのです。

【後編】ではこうした点を踏まえて、豊臣秀吉の「国替え」の意図はどこにあったのかを見ていきましょう。

参考資料:中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia

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