誤解されすぎた御用人…徳川綱吉の側近・柳沢吉保が悪役にされた理由と「忠臣」としての活躍【後編】 (3/3ページ)
しかしそれを示す具体的な史料は見つかっておらず、処分までの経緯もはっきりしていません。吉保は立場上、処分に関わってはいるでしょうが、それは幕閣全体で決めたと考えるのが妥当なところでしょう。
「側用人」の実態そもそも側用人とはどんな職務なのでしょうか。
特に綱吉時代の側用人は、綱吉との人間関係に立脚した役職であり、計12人が務めています。
中には、吉保のように20年以上務めた者もいる反面、わずか1か月だった者もいました。
徳川綱吉は幕府の職制が確立していた時期に館林城主から将軍になり、政治的手腕を振るうためには自らの手足となる側近が必要でした。さまざまな人を登用したのは、試行錯誤しながらふさわしい人物を探したからでしょう。
そんなこともあり、江戸初期からの幕府役職と思われがちですが、実は公式文書に登場するのは9代将軍・家重の時代の1756年からで、意外と遅いのです。
若年寄から側用人を経て老中になるというパターンが多かったようです。家重に側近として登用された田沼意次も、10代将軍・家治には老中として仕えました。
この頃すでに幕府の藩政に制度として組み込まれていた側用人というポジションは、重要ポジションだったことが分かりますね。
柳沢吉保は綱吉の死去を機に政治家としての生涯を終えましたが、家重時代以降は、側用人は老中への出世街道のステップだったのです。
参考資料:中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:Wikipedia
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