許してあげてよ…戦国時代、なんと”オナラ”が発端で恨みを買い暗殺された戦国武将がいた!

戦国武将の死因に関して調べてみると戦死、病死、暗殺の3つに主に分けられるかと思います。特に暗殺に目を向けてみると野心や裏切りによっての暗殺や恨み、禍根によってなどが挙げられます。
しかし、驚くことに「おなら」が発端となって暗殺された珍しい武将もいました。
今回はおならが発端となって暗殺された武将、千葉邦胤(ちば-くにたね)をご紹介します。
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しかし、宝治元年(1247)に起こった宝治合戦を機に多くの一族を失ってしまい、衰退。その後も内紛に次ぐ内紛で勢力の巻き返しができることがないまま、戦国時代に突入してしまいます。
戦国時代になると…戦国時代になると千葉氏は佐竹や里見と言った関東の戦国大名たちに攻められます。そこで先ほどの勢力とは敵対関係にある後北条氏の支援を得たことで領地を守ることができるようになりました。
その後も数々の戦で支援を求めたり、援軍を寄越したりしたことで後北条氏との関係を深め、勢力を保っていきます。

さらに、武勇誉れ高い千葉氏の29代目当主・千葉邦胤が北条氏政の娘である芳桂院殿(ほうけいいんどの)と婚姻したことで、後北条氏とは家族同然の関係になりますが、天正13年(1585)の時にある事件が起こりました。
新年の祝いの席で…
それは新年早々に行われた祝賀会でのこと。邦胤の近習で配膳係を務めていた鍬田孫五郎(くわた-まごごろう)が2回、大きなおならをしてしまいました。
これに我慢できなかった邦胤は孫五郎を叱りつけますが、孫五郎は「突発的なことは誰しもあるのに、この場で恥をかかせるとは酷いです。」と反論。
この発言が邦胤の怒りをさらにヒートアップさせることになり、邦胤は孫五郎を蹴り倒すと短刀に手をかける事態に。
家臣たちが間に入ったことによって邦胤はなだめられ、孫五郎は謹慎となりました。そして数か月後には邦胤の計らいもあり、近習として再び働き始めます。
しかし、孫五郎は祝賀会の恨みを忘れてはおらず、いつの日か邦胤に恨みを晴らすつもりでいました。
おならの恨みで暗殺そして、天正13年(1585)5月1日、孫五郎は就寝中であった邦胤に短刀を突き刺します。騒ぎを聞きつけた家臣は血まみれになった邦胤を見つけました。邦胤は「鍬田を逃さず、討ち取れ」と言うと29歳の若さで事切れました。
邦胤の遺言通り、家臣たちは孫五郎を発見し取り囲むと、孫五郎はその場で自害。
その後の千葉氏は邦胤死後の5年後に起きた小田原征伐によって領地を没収され、戦国大名としての千葉氏は滅亡してしまうのでした。
最後におならで起こした恨みで暗殺されるという最期を迎えた戦国武将は珍しく、非常に驚きました。たかが生理現象とはいうものの、時と場所を考えないと思わぬ結果が招いてしまうので、注意が必要ですね。
邦胤自身もおならを見過ごせる寛容さがあれば、歴史が変わっていたかもしれませんね。
トップ画像:屁合戦絵巻より
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