「千々石ミゲル」は本当に”背教者”だったのか?墓の発掘調査で明らかになったキリシタン信仰の実態! (2/4ページ)
世俗の権力よりも信仰や教義を優先し、信徒は反乱や侵略の先兵となる危険性もはらんでいたことから、神仏の国・日本における「邪教」と位置づけられたのです。
当時30万人以上いたとされるキリスト教徒は、棄教するか、仏教徒を装いひそかに信仰を維持する「潜伏キリシタン」となるかを強いられました。
禁教期の潜伏キリシタン関連遺構はあまり残っていませんが、近年、信仰の実態に迫る発見がありましたた。
天正遣欧使節の一員で、帰国後に棄教したとされてきた千々石ミゲルと、その妻が埋葬されたとみられる遺構から信仰具の一部が見つかったのです。
それによって、彼らが信仰を守り続けていた可能性が強まりました。
発掘調査で分かったこと千々石ミゲルは日本初のキリシタン大名である大村純忠の甥にあたり、1580年代に伊東マンショらとヨーロッパに渡り、ローマ教皇に謁見しました。
彼は日本の存在を西洋に知らしめた功労者ですが、1601~1603年頃、なぜかイエズス会を脱会し、清左衛門と改名して大村家に仕えています。
ほかの使節3人は生涯信仰を守ったのに対し、ミゲルは「背教者」として歴史に名を残すことになりました。