「千々石ミゲル」は本当に”背教者”だったのか?墓の発掘調査で明らかになったキリシタン信仰の実態! (3/4ページ)

Japaaan

天正遣欧少年使節顕彰之像

晩年の消息は不明でしたが、ミゲルの四男・玄蕃の墓と伝わる長崎県諫早市伊木力地区の墓石を調べたところ、玄蕃は建立者で、男女の戒名と寛永9年12月12日と同14日(1633年1月21日、2日)の没年月日が刻まれていたことが確認されました。

その後、ミゲルの子孫からなる民間チームが周辺の発掘調査を行っています。

その結果、膝を曲げて横たわる成人男女各1体の遺骨が見つかったほか、女性の墓穴でガラス玉58点、板ガラス1点などキリスト教の信仰具の一部が出土しました。

また男性の墓穴では、棺などに打ったとみられる約100本のくぎを確認。墓石に書かれた文字と発掘調査の状況に食い違いはなく、被葬者は玄蕃の両親であるミゲル夫妻だと結論づけられたのです

脱会後も信仰し続けていた

脱会後のミゲルの足取りから、彼はイエズス会は抜けても信仰自体は捨てていなかった可能性が高いです。

日本で布教したイエズス会の宣教師アフォンソ・デ・ルセナの回想録などによると、ミゲルは脱会後、キリシタンの大村藩主・大村喜前に仕えました。

しかし喜前が棄教し、取り締まりが強まった1606年頃に逃亡し、島原半島のキリシタン大名・有馬晴信に再仕官しています。

ルセナはミゲルを棄教者と断定しており、「なかなか枯れない雑草」と評しつつも、「釈迦や阿弥陀を崇拝しないから異教徒であるとは思われない」とも記しています。

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