暴力より議論を!幕末、“理解し合える”と信じた男・横井小楠。その「知られざる思想」の内容を解説 (2/3ページ)
もともと幕政を徳川御一家の便利私営と批判していた小楠は、欧米諸国の共和制にも通じており、特に大統領が世襲しない米国の政治を古代中国の聖天子・堯舜に禅譲した故事に連なると高く評価していました。
こうして導かれた公議・公論という政治理念は、幕藩体制に代わる近代国家への道を開くものでした。
それだけに、将軍後見職の一橋慶喜らにとっては容認できないものだったようです。
慶喜は、朝廷から引き続き大政委任を得ることを最優先するあまり、何の展望もないまま朝廷に攘夷決行を約束してしまいます。
こうして攘夷の期日を迎えた翌1863年5月、小楠は春嶽に藩を捨てる覚悟での京都出兵を建言しました。
この上京計画は、同年8月に会津・薩摩藩が朝廷内の急進的攘夷派を一掃した八月十八日の政変とは似て非なるもので、小楠は手紙で、在京中の将軍家茂をはじめ公家や諸大名、外国公使も加えた国際会議の構想を明らかにしています。
公議・公論によって鎖国か開国か決しようという考えは一貫していました。そこには、道理を尽くせば理解し合えるという人間への深い信頼があったのでしょう。
しかしこの計画は家茂が江戸に戻り、藩内の異論もあって実現しませんでした。そして、歴史は武力による攘夷派排除から内戦への道を歩むことになります。