大河『豊臣兄弟!』でどう描く?主人公・豊臣秀長を支えた家臣・横浜一庵の功績と非業の末路 (3/4ページ)

Japaaan

天正19年(1591年)1月9日、父親の四郎三郎が喧嘩による負傷で亡くなり、1月22日には主君の秀長が50歳で世を去りました。

秀長には婿養子の豊臣秀保(ひでやす。秀長の甥、姉ともの子)がおり、13歳で家督を継いだため、一庵は引き継ぎ仕えます。

秀吉の直参となるが……。

慶長大地震の惨状(画像:Wikipedia)

文禄の役(第一次朝鮮征伐)で秀保が名護屋まで出陣した際には、国許の留守を預かりながら京都伏見の秀吉と連絡を取り合いました。

文禄2年(1593年)閏9月23日には秀吉の開いた茶会に同席。こうしたコネ作りが、後に活きたことでしょう。

やがて文禄4年(1595年)に秀保が17歳で急死すると、秀長家は断絶してしまいます。

国主不在となった大和国には、増田長盛(ました ながもり)が赴任してきました。

しかし一庵は長盛に仕えず、秀吉の直参家臣として、側近く仕えるようになったのです。

傍から見れば出世ですが、これが後に運命の分かれ道となりました。

文禄5年(1596年)閏7月13日、秀吉らのいた伏見を大地震が襲います。

後世に伝わる慶長地震によって、一庵は崩落・倒壊した瓦礫に潰され、生命を落としてしまったのでした。享年47歳。

終わりに

今回は三家老の筆頭格として秀長を補佐した横浜一庵について、その生涯をたどってきました。

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