大河『豊臣兄弟!』でどう描く?主人公・豊臣秀長を支えた家臣・横浜一庵の功績と非業の末路 (2/4ページ)
若い頃の一庵がどのように暮らし、活動をしていたかは詳しく分かっていません。
秀長が大和国(奈良県)を治めるようになった天正13年(1585年)ごろから史料にその姿を見せています。
その事から、恐らく一庵は大和国内に相当の影響力を持った≒秀長の大和統治に貢献できる存在であったと考えられるでしょう。
かくして秀長の家老となった一庵は大和国内の政治を担当し、小堀正次(こぼり まさつぐ)と並び内政面での頂点に立っていました。
和歌山城の普請奉行を務める。 春日大社の普請奉行を務める。 秀長と興福寺の取次を務める。 島津討伐では留守居を務める。……など数々の功績によって、一庵は大和国内に五万石を拝領します。これは秀長家中でも断トツであり、いかに秀長から重用されていたかが分かるでしょう。
主君・秀長の死後
そんな一庵は藤堂高虎(とうどう たかとら)の養女と結婚し、庶子を含め二女一男を授かったと言われます。
女子(半井成近室) 女子(小堀正次室) 横浜茂勝(しげかつ。民部少輔、弟説も)やがて天正17年(1589年)に出家剃髪し、大蔵卿法印(おおくらきょうほういん)と号しました。
またこれまでと同じ読みで一晏(いちあん)の名も用いるようになります。
※以下も一庵で統一しましょう。