「べらぼう」史実では違った歌麿と蔦重の出会い。歌麿ブレイクから入牢〜転落〜衰弱までの真相 (3/5ページ)

Japaaan

ドラマでは衆道(男色)に通じるように描かれましたが、そのような史実はなさそう。 もともとは西村屋与八と仕事をしていたが、耕書堂に近づく。

喜多川歌麿は生まれは1753年頃とされますが、出生地は不明で、江戸や川越など諸説あります。彼の前半年をおさらいすると…

幼名は市太郎、のちに勇助(または勇記)。 若い頃は妖怪画で有名な鳥山石燕に師事し、絵の修行を積む。 1770年頃に「ちよのはる」の挿絵で絵師としてデビュー。

そして北川豊章の名前で、西村屋の依頼で絵を描いていましたが、西村屋の元を離れて蔦屋重三郎の耕書堂へ。

それが蔦重32歳の1781年ごろとされており、一説には西村屋が鳥居清長を大事にしすぎていたからともいわれています。蔦重との仲介は歌麿を可愛がっていた、絵師の北尾重政とも。

彼の後半を年表にすると…

1781年…耕書堂で最初に手掛けたのは、「身貌大通神略縁起」(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)の挿絵。「忍岡歌麿」名義。 1783年…「歌麿」名義で、吉原俄(にわか)を描いた「青楼仁和嘉女芸者部」「青楼尓和嘉鹿嶋踊 続」を手掛ける。俄とは、あの吉原で行った出し物の祭りですね。
※1786年に田沼意次が失脚し、新たに松平定信が老中に! 1786年から1790年…当時流行していた狂歌に、花鳥画を合わせた狂歌絵本を13種刊行。 1793年…「寛政三美人」を手掛ける。 1794年…耕書堂を去る 1804年…54歳で死去

蔦重は、歌麿を住み込みにさせて、缶詰状態にして作品に集中させます。

そして従来の全身像ではなく、顔や上半身を大きく描く「大首絵」のアイデアで「婦女人相十品」「婦人相学十躰」、茶屋の看板娘を描いた『寛政三美人』がヒット。蔦重のよしみで吉原連に入っていたため、女性の表情から性格や運勢を見る「相見」を得意とし、生き生きとした表情を描くことができたといわれています。

ところが幕府は、美人画に芸者や茶屋娘の名前を入れることを禁止する新たな規制を打ち出します。

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