「べらぼう」史実では違った歌麿と蔦重の出会い。歌麿ブレイクから入牢〜転落〜衰弱までの真相 (4/5ページ)
これに対して制作サイドは「判じ絵」という手法で応戦。背景にヒントとなる図案を描き込んで、「沖」と「田」で「おきた」を表すといった具合に、名前を暗示したのです。
幕府とのいたちごっこを続けながらも美人画を手掛けていた歌麿。
しかし1794年には耕書堂を去ってしまいます。その理由は明らかにはされていませんが、一説には東洲斎写楽の登場により、蔦重が写楽を重宝するようになったからとも言われています。
その後も意欲的に作品を発表していた歌麿ですが、彼のキャリアに終止符を打つ決定的な事件が起きます。
1804年に豊臣秀吉の「醍醐の花見」を題材にした作品「太閤五妻洛東遊観之図」が幕府の怒りを買ってしまい、手鎖50日・入牢3日の刑を受けてしまいます。
両手の自由奪われ100日も!江戸時代に山東京伝や喜多川歌麿が受けた「手鎖の刑」とは?【大河ドラマ べらぼう】これがもとで精神的に大打撃を負った歌麿は、その後病気がちとなり1806年に死去。享年54歳の短い人生を遂げました。
