幕府も黙認、江戸時代の寺社はカジノ状態。なぜ江戸の博徒は寺社に集まったのか?【後編】 (3/3ページ)

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清水次郎長像

当地では天保7年(1836)には甲斐騒動(郡内騒動・天保騒動とも)と呼ばれる百姓一揆が起きましたが、これに多くの博徒や盗賊が加わったことで騒動が激化・無秩序化していったのは、歴史が好きな人ならご承知の通りです。

ついに武装集団化

江戸時代後期から幕末にかけて博徒はさらに隆盛し、武装集団化も進みました。

特に武勇の気風が強い上州(上野国)や武州(武蔵国)の多摩地方ではその傾向が強く、国定忠治のような博徒のヒーローも現れています。

国定忠治(Wikipediaより)

幕末期、彼らは一揆や打ちこわしに加勢する一方で、領主の依頼を受けて一揆を鎮圧する側に回ることもありました。

また、戊辰戦争では博徒集団が傭兵として活躍し、戦死した者たちの埋葬も行っています。

ちなみに、幕末期の山形県では沿岸部と内陸部とで新政府・旧幕府側にそれぞれ分かれて抗争が繰り広げられましたが、この時にも博徒・盗賊たちが動員されたという記録が残されています。

このように、江戸時代の博徒たちは、単なる無法者というカテゴリには収まり切らない存在でもあったのです。

参考資料:縄田一男・菅野俊輔監修『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』2023年、宝島社新書画像:photoAC,Wikipedia

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